道を尋ねられるしゃふしゃ〜第0印象について〜 ①

道を尋ねられるしゃふしゃ

東京に出てきてから、知らない人に道を尋ねられることが多い。
おおよそ月に1〜2回のペースで聞かれる。ちゃんと調べたわけではないが、これはかなり多い方だと思う。

気になったのでTwitterのアンケート機能で調べてみた。
結果は以下の通り。

道行く人云々

僕はどちらかと言わなくても出不精な人間である。用もなく一人でぶらぶら歩いたりすることはそんなに無い。用あって外出する時も自転車を使うことが多く、知らない人から話しかけられる「チャンス」はかなり少ないはずなのだ。
(流石に自転車に乗っている最中に知らない人からものを尋ねられることはない。もしあったら今度それをネタに記事を書く)
それでも、よりにもよって珍しく一人で歩いているときに、人は僕に道を尋ねてくる。こういうどうでもいい少ないチャンスだけはものにしてしまう。大学構内で、車通りの多い大通りで、住宅街のような小道で、あるいは駅構内で、あらゆる場所で「すみませ〜ん。」という声が僕にかかる。

正直、煩わしく思ってしまう。
最初の頃は問いかけに応じて道を教えていたのだが、僕の説明があまり上手くないのか、適当なところで愛想笑いで切り上げられしまうことが多かった。
最近では面倒になってしまって、よくわからないです、とか、急いでるので、とか適当な理由をつけて立ち去ることにしている。
毎度毎度急ぎの用があるわけでもないのだが、別に見ず知らずの他人に時間を割く義理もないし、僕の説明じゃどうせわからないだろうし、というか、話しかけられて立ち止まって応対している時点で数秒間あなたのために時間は割いたので、もうその親切さに感謝してほしいです、くらいに思うようにしている。
かなり傲慢不遜な思考だと思う方もいるかもしれない。そう思ったあなたは、居酒屋街で話しかけてくるキャッチをイメージしてみてほしい。わざわざ立ち止まってキャッチの話を聞きますか。立ち止まりもしないし、言葉さえ返さない人も多いんじゃないですか。
流石に道を尋ねてくる人とキャッチとが同じだとまでは言わないが、僕が何度も何度も経験するちょっとした煩わしさはそれに近いのだろう。相手方が無下にあしらうことがある程度許されるキャッチでは無く、人間の道徳的教訓であるところの
「困った人には親切にしましょう。」の「困った人」である分だけ、僕のバツの悪さが上増しされて、なおさらやりにくいくらいだ。

たまに腹が立つのが、僕にかけられる「すみませ〜ん。」の声の裏にあるニュアンスが明らかに ”Excuse me.” では無く “Hey, man.” くらいの横柄さを持ったものである時だ。この時の僕の心の機微をなるべく詳しく、ちょっと大袈裟に書いてみようと思う。

まず、声をかけられた瞬間カンに触る。
ただ、この時点で無視するわけにもいかない。言い換えると、この時点で僕の怒りは確定しない。僕が財布を落としたのに気付いてくれたのかもしれないし、稀なケースではあるが、近くで人が倒れており救急車を呼ぶよう指示されるのかもしれない。そういう喫緊の要求をする際には、”Hey, man.” 的な声掛けの「すみませ〜ん。」はかなり適切だ。そういう意味では、後に続く言葉が「なんか漏れそうなんですけど、トイレどっかにありますかね?」とかそういう質問だった場合も、まあ理解できる。人類普遍の緊急事態に際しては、僕も最大限の寛容さで迎え入れることができると思う。

ところが人は僕に続ける。
「〜〜〜ってどこだか、わかりますか?」

ナメられてる。

ナメられてるんだ。見ず知らずの人間にナメられた。この怒り。
道を尋ねられたことが確定した最初の瞬間に自分が最初に味わう感情は間違いなく、この怒りだと思う。
自分は、この瞬間、間違いなく、この相手から、おそらくは無意識に、見下されている。これをはっきりと自覚したときの怒り。

この後に理性がはたらいて、今までの負の感情を意識の側に起こさないように無意識の側に封じ込めて、聞かれている内容を理解して、自分の中の煩わしさをなるべく出さないようにしながら、「すみません。わからないんです。」と返答する。
相手は多くの場合、黙ってまた歩いていく。なんか一言ないんか、とまたほんの少しだけカンに触るが、またその怒りを無意識に閉じ込めて、僕も再び歩き始める。

なぜしゃふしゃは人から道を尋ねられるのか

文章にして書いてみると、これを読んだ人は
「道を聞かれたくらいで煩わしいとかキャッチと同じだとか酷い奴だな」
「ナメられてるだなんて考えすぎだ」
と考えると思う。
だから保険をかけておく(し、一応本心から思ってることを文章にする)と、まあそんなにいちいち腹を立てたることはない。
しゃふしゃとて、道徳心は人並みにはあると思う。4歩くらい譲って道徳心はなくとも、少なくとも、外見に出てしまう振る舞いを必要に応じて道徳のフィルターにかけてから行動として出力する能力、その出力をもとに自分の感情にフィードバックする能力は人並みにはあると自負している。そんな些細なことで一回一回不機嫌にはならない。
自分の心の小さな変化を捉えて文字に起こすとこうなるよ、という話である。

ただ、この煩わしさとかたまに来る小さな怒りをあまり馬鹿にされたくはない、というのも僕の正直な気持ちだ。
道を歩いてるのなんて何も僕だけじゃないのだし、僕のすぐ前の人でも後ろの人でもいいはずなのに、なぜか僕になる。
僕の進路に立ち塞がるように入ってきて、「あの〜」と聞いてくる。
いや、まあ誰でもいいんだから僕でもいいんですけど。でもあなた、僕のすぐ前歩いてた体格いいおっさんに聞く時も同じやり方するんですか? とか、ちょっとだけ思ってしまう。

なぜ僕は道を尋ねられるのか。体格が良くないからナメられてるのか? 相手に対する威圧感がないから?

ナメられてるとか威圧感とかそういう物騒な言葉を使わなくても、もう少し丁寧に話を組み立てればこれは自分なりに説明できるような気がする。

再び自分の経験の話をする。
自分は弓道をしている。使用する弓は、弦を貼っていない状態で220cmある。電車とかで、とても長い棒を持っている人を見たことがある人もいると思う。あれは大体、弓道の弓だ。
なんでこの話をしたかと言うと、僕はこの2m20cmの長い長い弓を持ち歩いている時には、道を尋ねられる事は一切ない。
東京に出てきてから、遠くの道場で練習するために弓を持って歩く機会はそこそこあったはずだが、知らない人から話しかけられた事は一度もない。

もう一つ。自分は一度だけ髪を明るく染めていたことがある。
柄にもなくおしゃれもしてみようかしらと、金に近い明るめの茶色に染めてみたのだが、その後髪をセットするのも再び染めるのも面倒になり放っておいた。
そのうち地毛が出てきて、他の人から見ると少なくともおしゃれとは言えない、だらしのないもさっとした異物のように見えていたことと思う。
この、変な髪のもさっとした異物だった4ヶ月の間は、ただの一度も道を尋ねられた事はなかった。

そんなに多くはない具体例だが、これらから言えること。
なんでもいいから、とにかく違和感を身にまとうことが道を聞かれないためのコツらしい。
いい意味でのオーラでもいいのだろうが、押さえつけ圧倒するような威圧感でもいいのだろうが、そうでなくともとにかく道ゆく人になんか変だと思わせる何かがあれば、道を聞かれなくて済むらしい。

パッと目視したその瞬間、あるいは周辺視野で捉えたその瞬間に、相手にほんのわずかでも違和感を与えることこそが、「道を尋ねられない人」になるためのコツだと結論したい。
おそらく、視野外からの聴覚、嗅覚的刺激でも良いのだと思う。(聴覚とか嗅覚に訴えるやつは相当やばいやつだと思われそうだけども)
書いてみると当たり前のことのように思う。誰だってパッと見てやばい奴には絡みたくない。


道を尋ねられる問題は解決しちゃったのでここで終わってもいいんだけど、もう少し書きます。②に続きます。


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