お寺を学んでいると必ず歴史が関わってきます。 その中で武士道というものに出会い、 日本人の本来持っている精神性には仏教と武士道が大きな根幹を 成しているのではないかなと感じてます。 武士道とは誰もがイメージできるのは「侍」が まずはパッと思いつくのではないでしょうか? その思いついた「侍」という漢字と「寺」との共通点は なんでしょう? 見た目通り「寺」という漢字が共通しています(笑) そこで「寺」という漢字の語源を調べてみたところ 人が手や足を使うということ、また「
恥ずかしいという気持ちを感じたとき、それはどういうときですか? 学校で皆の前で意見が言えなかったとき? 皆できることが自分にできないとき? 見られている中で失敗したとき? それぞれ恥ずかしいという気持ちを持つ状況は異なると思います。 その恥ずかしさは何に対する恥ずかしさですか? 一般的な「恥ずかしさ」とは 自分の欠点・過失などを自覚して体裁悪く感じるさま。面目ない。 人目につきたくない思いである。気詰まりである。てれくさい。 これは他者から見られている、他者からなにか
「○○して当たり前」という言葉を世間一般で よく言われる言葉かもしれません。 それは自分にとって当たり前だけであって、 相手にとっては当たり前じゃないこともあります。 生まれた場所が違えば、それぞれが学んでいくこと、 食べるもの、使うものなどいろんなことが 異なってくるはずです。 自分の中の当たり前を相手に押し付けることなく、 相手の当たり前は何なのか?と 思考を張り巡らせてみることが 相手の立場を知るきっかけになる氣がします。 人間関係に悩む方は自分と相手の当たり前
人間の精神性は常に変化し続けていて、 同じ日々を繰り返していくと、 減衰していきます。 一日一日を大事に生きていくためには 何が必要なのか それは「死を身近に感じれること」だと思います。 その感覚を養うことができる一つの場として 墓地や供養を行うお寺がある氣がします。 定期的にお寺で自分の死や他者の死を考えることができるように なると 「自分はどういう思いをもって死にたいのか」を考えるようになり、 「そのために今をどう生きていくか」に考えの視点が 向くと思います。
お寺とは地域のコミュニティの場であり、人が集まる場所だと考えています。その中で誰かが亡くなったら、お葬式をあげて、亡くなった方への供養を行います。 その際には誰かの悲しみが伴い、悲しみを表すことができる一つの場所としてお寺が役割を果たすのだと思います。 誰にも吐き出すことのできないどうしようもない悲しみを人の死と向き合う場であるお寺だからこそ、気を遣わず吐き出しやすいのではないでしょうか? 前提として、当事者とお寺との関係性がある程度あったうえで、できることなのかもしれま
お寺では読経する際に無意識状態になり 「瞑想」という状態に入ります。 その状態では感覚だけが研ぎ澄まされ、 遠くの物音や空気の流れる様子すら感じられるようになります。 面白いのが、その際に体勢がとても考えれているのが面白いところです。 読経をする際は正座の体勢で行います。 正座するとこんな効果があります。 正座する→自然と腹式呼吸になる→下腹部が鍛えられる →腹式呼吸により、自律神経が集中する横隔膜が刺激される →自律神経のうちに副交感神経が深い呼吸により働き、リラッ
世の中は常に変化している。 技術は進歩し、便利なものが増え、 人間ができることも進化しているように思える。 1つ考えてほしいのは便利なものが増えた結果、 人は何をするようになったのだろうか? 「楽」をする時間が増え、動かない時間が増えているようにも 感じられ、 極端な話ではあるが、技術の進歩は人は何もしなくても 生きていけることをもたらす可能性もあるのかもしれない もちろん、技術の進歩が悪いというわけではなく、 適切に使うことが重要だと考える。 最新のものがいい、古い
普段、面倒くさいと思うことがたくさんあるな~と感じつつも、 そう思ったまま、やらないということがほとんどです。 ふと、面倒くさいってその人の中で気にはなっている状態だから、 あとは行動にできる段階に持っていくだけじゃない? と思いました。 「面倒くさいという感情=やろうとしていることに対して意識はできているけど、行動に移せていない段階」 なにかを始めよう!、継続しよう!としている途中で 「面倒くさい」にぶつかることはあると思います。 自分がよくぶつかるので、、、(笑)
失敗することは怖い、だめなことでしょうか? そもそも、なぜ失敗に対してこういった印象がもたれてしまうのか、、、、 それは単純に失敗したことに対して謝れない人が多いからだと考えてます。 政治家がいい例です。 彼らは自分が行ったことに対して、謝罪・責任を取らない、発言にも 責任を持たない様子がメディアでは取り上げられがちです。 それがその人たちの全てを表すものではないかもしれませんが、 そういったとこばかり目に入るため、 それを見た人が失敗しても謝らないし、失敗するのはよくない
前回の記事の「因数分解の使い道」でお伝えしたように 子どものころに学んだ内容が社会でどう活かすことができるかを 考える機会はあまりないのかなという印象です。 大人になったら、そんなの使わないんでしょ? なのに、なんで勉強しなきゃいけないの? 私が塾講師をしていたときに生徒たちから言われた際に 「たしかにな、、、、使わないとわかってるものを学ぶのは 子どもたちの立場からしても面白くないだろうな・・・・」 と考えさせられました。 必要なのは「学んだことがこの先、どんなことに
学生に学んだことが今、役に立っていることってありますか? 例えば、中学数学でならった「因数分解」 これが社会人になった使うこと、学んで役に立ったというエピソードが あったでしょうか? 子どものころに習った知識は世の中で役に立たない、 そんな考えが私にも最近までありました。 仕事で売り上げについて考えているときに 売り上げは「顧客の数」や「商品をどれだけ気に入ってもらっているか(熱狂度)」などの要素が絡んだ結果が反映されているんだなとわかりました。 じゃあこれらの要素は
先日の投稿で「自分で言葉にしたことを行動にしていく」が 大事だとお伝えしました。 行動していくうえで私が大事にしていることがあります。 それは「結果に期待しないこと」です。 結果に期待すればするほど、期待した結果を得れなかったときに そのためにした勉強や仕事、費やしたお金、時間など 全てが無駄になったと感じてしまいます。 そうなると行動する第一歩が重くなってしまいがちです。 もう少し、身近な事例で例を挙げると 「初めてやってみた野球で全然ボールを遠くまで投げれなかった
皆さん、子どものころはどんな夢がありましたか? その夢を持ったきっかけはどんな出来事でしたか? 将来、こんな人になりたい!と思えるのはそこに楽しく過ごしている大人(たち)がいたからのではないかなとここ最近思います。 逆に常に愚痴を言ったり、疲れている様子、楽しくなさそうな雰囲気を子どもたちが見てしまっていると「大人にはなりたくないな、、」というイメージがついてしまいます。 「あんな大人になりたくないな」という反面教師にする子もいるでしょう。 子どもたちは純粋に楽しそう
お寺という空間はお寺関係の方、檀家の方、地域の方、お寺に訪れる方、お寺にゆかりの歴史人物など、いろんな人の歴史がつまったものだと考えています。 そんな空間で何が学べるのか考えてみました。 それは「当時の人がどんな考えで、どんな方法で生きていきたのか?という過去を知り、今だったらどんなことに活かせるのか?」ということ もっと身近な言い方をすると道徳という科目ですね お寺や神社といった長く歴史がある場所には人の力が関係していて、 そこでの考え方や行動がなにかしら良い影響を与えて
お寺で話ができるとしたら何を話しますか? お寺という場だから、話せることって 何だろう?とふと考えたことがありました。 vol.0で書いた、お寺は自分自身と向き合うことができる場にできると思います。 その場で話すとしたら、 「自分は将来、どんな自分でいたいのか?」 「自分が大事にしたい生き方、信念はなんだろう?」 普段なかなか話せない真面目な話ができるのはお寺の雰囲気があるからこそなのではないのでしょうか? 自分の思いをありのまま話せる 辛い経験などを共有できる
ここ最近では「コミュニティ」というジャンルが注目されてきています。 サークル、部活、ゲーム内コミュニティ、家族、友人関係、仕事、ママ友、ゲストハウス、シェアハウス、好きな趣味で集まるコミュニティ、町内会など、 挙げれば世の中にはいろんな形のコミュニティが存在しています。 コミュニティに所属して、その場所にいても氣を遣わず、自分の思いを語れるのなら、 「ここにいてもいいんだ」という安心感が生まれます。 安心感をもてるからこそ、その場に行きたくなると思います。 コミュニティ