私がいかに「耳」で学んできたか
自分は「耳」偏重の学習者だと、よく思う。
主には、外国語を学ぶうえで圧倒的にシャドーイングに頼っている点で。
でもよく思い返せば、母語、つまり国語も音読によって身につけたところが大きい。
そして言語に限らず、音楽も、楽譜の読めない私は耳コピ依存度が高かった。
映像記憶が得意な人というのがたまにいるが(小説や映画にはよく登場する、実際いるのかどうかは知らないが)、自分はビジュアルよりアコースティック派、といえるのかもしれない。
実際生理学的にその能力が高い、ということではなくて、習慣上そちらの性質が大きい、という意味だが。
この話題は人に話したら面白そうなので、その下書き?としてここに自分の思い当たる節を書き出してみようと思う。
外国語:音読、シャドーイング
ことの始まりは、幼少期アメリカに住んでいた時なのかもしれない。1歳までは日本語だけを浴びて育っていたのに、突然現地の幼稚園にぶち込まれ(そう言うと親に失礼か)、最初の頃は混乱していたのだろう、朝送り出されるたびに泣いていた。でもある日、先生に「ティッシュを持って来てくれる?」と言われ、きちんと正しいものを渡した、というのがブレイクスルーの日だったらしい。
むろん、文字に頼らず言語を学ぶというのは全ての子供がやっていることで、これは私に限ったことではない。でも、そういう読み書きのできない時期にバイリンガルな環境に置かれていたのは、いま思い返すと、耳ベースになる土壌を作っていたのかもしれないな、と思う。
さて、そのあと日本に帰って一旦英語を忘れたが、中学に入って再開する。当時習っていた先生が、音声が流れてきたらすぐさまそれをリピートする、つまりシャドーイングという学習法を教えてくれて、それがすっかり気に入って、中高6年間やり続けた。
なんといっても、シャドーイングは楽なのに効果抜群なのである。
もちろん最初は難しい。聞こえてきたものを真似ようとしても口が回らなくて、あれよあれよという間に置いていかれてしまう。でも、音声を外してテキストをゆっくり音読したり、音声の再生速度を落として耳慣らし・口慣らしをしているうちに、だんだんこなせるようになってくる。
私は大体同じテキストを最低一週間、毎日繰りかえす。例文集や単語帳ともなれば、何カ月もやっていることもある。そうすると、もうテキストが自分のものになってきて、何も考えなくても口が自動的に動くし、なんなら音声が流れてくる前に、次に何が言われるかも分かる。シャドーイング中だけではなくて、例えばテスト中でも、文章丸ごと音声教材のナレーターの声で、脳内再生できるようになる。私はそうやって頭の中に流れてきたものを、変形・応用させて作文問題などに答えていた。当然ながら発音も正しく身に付くし、良いことづくめである。
しかもシャドーイングは慣れれば楽なもので、空いている手で洗濯物を畳んだり、身のまわりを片づけたりできる。マルチタスクにもってこい。単語暗記などは、目で読んで、口に出して、手で書いて、しかも机の前に拘束されている割に定着度は悪いし、なによりつまらない。それと比べてシャドーイングはなんて優れものなんだろうか。
そういうわけで味を占めた私は、他の言語もそうやって学習している。
耳ベースで学んでいるので、発音へのこだわりが強い私に合っているのだ。「発音は二の次で、意思疎通が出来ることが一番大事なのだ」という人もいるし、入門の頃はそれでも良いのだろうが、私は発音は良いに越したことはないと思う。それは、ネイティブの方々への一種の敬意だと思うからだ。喋っている内容だけではなくて、喋り方、つまりマナーも、現地の方々に合わせる努力をすることが、そこにある文化や言語を尊重することに繋がると私は思うのだ。
それから、発音の他にも、文章力もつくのがシャドーイングだ。文章を丸ごと覚えるので、コロケーション(語と語の組合せ)や、その言語のリズムが自然と身に着く。英語の作文でも、私は頭の中で音読してみて、音的にしっくり来ないな、と思えば書き換えた。そうすると、読んでいて気持ちのいい文章になっているようで、先生方に褒めて頂けることがままあった。
そんなわけで英語を始めてかれこれ10年、そして大学に入ってからはフランス語と、その他もろもろ(ロシア語、韓国語、スペイン語、中国語)に膨大な時間を捧げてきたと思うが、その中でもシャドーイングに6~7割方は割かれているのではないかと思う。それに比べたら、机の上でまじめに文法や単語を勉強していた時間など微々たるものだ…。
国語:音読
さて英語を脇にやっていた小学生時代はといえば、ここでもせっせと声を出して日本語を学んでいたような気がする。
他の方はどうか知らないが、私のところは音読の宿題が異様に多かった。低学年の頃は、国語の授業で習っているお話を、3回音読してくるのがもっぱらの宿題。私は毎朝、ネクタイを締めてトーストをかじっている父親に向かって、もしくは洗濯物を畳んでいる母親に向かって、だらだらと読み上げていたような気がする。たまに長いお話だったりすると、3回目にはうんざりして泣きたいような気持になってくる。が、ズルを許すような親でもないし、自分もサボれない性格なので、最後まで読んで、音読カードにサインをもらって学校に持って行く。
耐えがたい修行のようで決して好きではなかったけれども、やはり文章のリズム感とかセンスというのが、音読を通して身についていたのではないかと思う。読書が好きだったのもあるだろうが、国語の勉強や作文で困ったことはなかった。
今でも、なにか書くときは、それが声に出して読みやすいかどうか、に重きを置いている。(といっても最近は、英語的な文章構造が染みついてしまったせいで、文章の区切り方や語の選び方など、「純ジャパ」だったころよりも下手くそになった実感がある。)
音楽:耳コピ
私は楽譜が読めなくて、なのに音楽の盛んな中高に入ってしまったのを、耳コピで何とか乗り切った。中3のとき何かしら個人発表をしなければならなかったのを、歌うのは嫌だったので、しまい込んでいたリコーダーを引っ張ってきて、「人生のメリーゴーランド」を吹いているYouTubeを見て必死にコピーした。シャープやフラットの運指も知らなかったが、指も写っている動画だったので、数秒ごとに止めては、音の出し方を確認していた。
そんなことをしていたら、リコーダーでなら何でも耳コピできるようになってしまって(シャープやフラットが多すぎなければ)、アルトやソプラニーノの笛も揃えて、ジブリやディズニー、時にはクラッシックをずいぶん吹いた。
そのあとは、ひょんなことでオーケストラのパーカッションに誘われて入った。たしかにパーカッションは音程のない楽器もあるが、木琴やティンパニはそんなことないし、相変わらず楽譜が読めない自分には大変ない仕事だった。
だから楽譜をもらった日にはすぐさまYouTubeで演奏動画を見つけて(同じ曲でも色々なバージョンがあったりするので、全く同じものが見つから仲たりすると本当に焦る)、楽譜読解の助けとする。ははぁ、この音符はこういうふうに演奏するのね、と。しつこいくらい見るので、私だけでだいぶ再生回数に貢献しただろう。
おかげさまで、パーカッションと一口に言っても10種類くらいあって、しかも「第二の指揮者」とも言われる責任重大なセクションをなんとか、1年半務めることが出来たのだろう(務まっていたかどうかはメンバーの判断に委ねるが…)。
門前の小僧習わぬ経を読む、というが、私も全くそうなのである。ほとんど読めない音符やハングル、キリル文字でも、ひるむことなく(?)その奏でるものを自分でも発してみたい、そんな私を支えているのが耳の力だと言える。
だからこそ、ふと「私の耳が聞こえなくなったら」と考える。
人間は一般的に目からの情報に頼っているところが大きく、私も色彩を失ったり、自分の愛する人やものを観られなくなるのは、想像に耐えないだろうと思う。日常生活での支障も大きそうだ。
しかし、個人的には耳への思い入れもかなりある。自分がいかに多くのことを耳で学んできたか。特に言語が好きな身として、外国語を学ぶうえで目を塞がれるのと耳を塞がれるのとではどちらが辛いだろうと考えると、「耳だ」と思ってしまう。
これは「実際に目か耳の不自由な方々について、どちらが大変か」を議論しているのではない。私にはそんなことを推しはかる資格も、根拠もない。
でも最近、本やテレビで、手話を観ることが多くなった。コロナ禍で、手話付きのニュースが増えた気がするし、小説やドラマでも耳の不自由な方が登場することが増えてきたと感じる。
言語好きな割には手話を学んだことがなく、でも耳の大切さを感じている私にとって、このサインランゲージというものは、なにか大事なことを教えてくれるものなんじゃないか、と思ったりもする。
自分にとって本当に大事なことなら、きっとご縁が巡ってくるはず。いますぐには始めないかもしれないけれど、いつか身近になることがあれば、ぜひ始めてみたいな。
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