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NewJeansが放つ神秘性|Bunnies Camp 2024 Tokyo Dome

 「NewJeans」は、天使のような存在に見えた。

 確実に目の前にいるのに、果てしなく距離があるように感じた。存在感が溢れ出ていたのに、そこにはいないようにも思えた。現実なのに、夢と見分けがつかなかった。完成された一本の映画を見たような気がしたのに、この場で偶然生まれた会話のようでもあった。あまりに衝撃的で、印象的で、感動的な時間だった。少し時間が経った今も、まだ余韻の中にいる。なのに、きっと数日後には、もうこの感情を思い出せなくなっているだろう。素晴らしい楽器やパフォーマンス、愛苦しいメンバーたちの表情は記憶フォルダに保存できても、あの神秘性は、一度現実に戻ると泡のように消えてしまう。そういうものだと、なぜか理解ができてしまう。だから、今のうちに、忘れないうちにこの日のことを書き留めておきたい。

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 2024年6月27日。NewJeansの初の単独来日公演『Bunnies Camp 2024 Tokyo Dome』。その2日目の公演を観に行ってきた。

 2022年にデビューした韓国の女性5人組アイドルグループ・NewJeansは、グローバルで活躍している大型ルーキーだ。「Dittto」や「OMG」など、彼女たちの楽曲を日本で聞く機会も多いだろう。そんなNewJeansが、デビュー後1年11ヵ月で東京ドームの単独公演を実現させた。聞くところによると、これは海外アーティスト史上最速らしい。

 私は、特にNewJeansのファンというわけではなかった。NewJeansの曲はよく聞くし、メンバーの顔と名前はわかる。しかしそれは、K-POP全般が好きなだけであって、グッズやCDを買ったり、YouTubeにあがる動画を具にチェックしたりするような、いわゆる推し活をしていわけではない。今回の東京ドームは、NewJeansファンの友人(もそこまでの推し活はしていないが)に誘われていくことになった。動機としては、どうしてもNewJeansに会いたい!というよりは、日本での歴史的な初ライブを見ておきたい!という好奇心が強かった。

 有給をとって、新幹線で大阪から東京に向かう。友人とは東京ドーム、現地で待ち合わせ。物販を見に行こうとも考えたが、並ぶだけの気力も体力もなかったので諦めた。久々に会った東京の友人は「今日が終わったら、しばらくの間何を楽しみに生きていけばいいのだろう」と言っていた。さすがに大袈裟だと思った。私は、来月に好きな芸人の単独ライブがあるし、再来月には大好きなミュージカルもある。この日も大きな楽しみではあるが、複数の大きな楽しみの一つでしかないと思っていた。

 ライブ終演後、私は、「NewJeans」のことしか考えられなくなっていた。ただの一つも言葉が出てこなかった。

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 まず、素晴らしいライブであったことはお伝えしておきたい。

 巨大なNewJeans × パワーパフガールズの模型、カウントダウン、東京ドームへ向かうタイムラプス動画、250によるオープニングのDJ、ライブアレンジされたNewJeansの楽曲、生バンド演奏、数多くの衣装、ライトスティックを駆使した照明演出、曲に合わせてフレームが変わるスクリーン、MVを再構成したショートフィルムのような幕間V、NewJeans × 村上隆のアートワーク、ソロパフォーマンス、日本の楽曲のカバーステージ、ゲストアーティストによるステージ。舞い上がる羽のようなコンフェティ。

 どこを切り取っても、二度と再現できないような一回性の光を放っていた。全てがあまりにもまぶしかった。

 NewJeans本人たちのパフォーマンスも素晴らしかった。透明感のあるボーカルに、洗練されたパフォーマンス。NewJeansの楽曲は、そのオーガニックさゆえに(いい意味で)あまり実力が目立っていないような気がしていたが、ライブを見るとがらりと印象が変わる。パフォーマンスが安定しているからこそ、私たちは、実力に気を取られることなくその先を楽しむことができる。それでいて、パフォーマンス中もトーク中も、彼女たちの振る舞いはあまりにも自然体だった。韓国語・英語・日本語を交えて言葉を発してみたり、ライブ中に「この後こんなことやるかもよ」とスポしてみたり、泣き出したメンバーを見てステージ上に寝ころんでみたり。それがライブ感をより高めていて、今そこで行われていることなのだという実感をもたらしていた。

 特に衝撃を受けたのは、ソロステージ。ミンジがVandyの「踊り子」を歌い始めた時、鳥肌が立った。それまで体を揺らしながらライブを楽しんでいたが、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。本家を超えたということではなく(そもそも超えるはあり得ない)、Vaundyが提示したテーマを、ミンジが完璧に演じて見せた。青春を、目に見える形で表現するのなら、これ以外にないんじゃないかとまで思えた。エモいということは、知っているということとほぼ同義だと思う。既視感こそがエモさである。NewJeansのエモさは、そんなありふれた煌めきがあるからこそで、観客にそれを悟らせない技量がある。

 しかし、非常にクオリティの高いライブであったことは間違いないのだが、それだけではあの神秘性を説明できない。

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 夢の中で、一本の映画を見たような気がした。19:00開演時に流れた映像から、モノが違うと感じさせられた。

 アイドルのライブは、その性質からしてオムニバス的な見え方になることが多いと思う。一曲一曲にテーマ、メッセージがあって、それを圧倒的な存在感を放つアイドルの求心力でまとめあげている。しかしNewJeansの場合、完成された連続的な作品の中にNewJeaansが取り込まれているような印象がした。全てがフィクションのような気がするし、それでいいとも思えた。ノイズのない、閉じられた世界。彼女たちの実力や端正なルックスすら、フィクション性を際立たせる要素に過ぎず、目的ではなかった。

 それなのに、ライブ特有のみずみずしい生の手触り、エネルギーもたしかに感じられた。生バンド演奏でのパフォーマンス、MCなし・翻訳なしのトーク。ライブ終盤にはヘインとハニが思わず涙を浮かべる場面もあった。しかし、そのみずみずしさが、かえってフィクションを加速させる。嬉しいことに彼女たちは頑張って日本語を話してくれるのだが、多くの会話は韓国語と英語で、ほとんどのファンはそのメッセージを理解できない。翻訳が入らないことによって生の体験として受け取れるものは大きくなる一方で、直接的なコミュニケーションが想定されているわけではないことが、はっきりとわかる。もちろん、これは彼女たち本人の意思ではない。NewJeansがまっすぐ純粋に観客と向き合っているからこそ、切ないのだ。そのように、「NewJeans」は作られている。

 「NewJeans」には、大人の思い描く青春が詰め込まれている。そしてNewJeansは、その幻想の象徴として現世に顕現した天使のような存在。彼女たちは(おそらく本心で)ファンに近づこうとしてくれるが、そこには次元の隔たりがある。交流が可能なものとはされていない。映画の登場人物のセリフに心を打たれることがあっても、私たちが向こう側にメッセージを届けることができない。天使に恋い焦がれたとしても、近づくほどに私たちの身は焼け落ちて海に沈む。NewJeansという存在がリアルであればあるほど、フィクションとしての「NewJeans」が完成されてゆく。それこそが、その屈折こそがNewJeansの神秘性なのかもしれない。

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いきつけの喫茶店で、このnoteを書いている。

 書きながら、迷いながら、思い出しながら、ライブ終わりに言葉にできなかった思いが溢れてくる。

 この瞬間に立ち会えてよかった。自分の中で何かが変わった気がした。このまま、アイドルという文化がなくなってしまってもいいという気持ちになった。NewJeansが、人生で見る最後のアイドルであってほしいと思った。

 こんなにもNewJeansに魅了されたのに、そろそろ夢も解けてしまう。いつかはこのライブのことも忘れてしまうかもしれない。それでも、私の記憶は薄れてしまっても、NewJeansがここで私の人生に影響を与えたことは、その事実は変わらない。それくらい、素晴らしいライブだった。

 とりあえず、英語と韓国語の勉強を再開してみようと思う。

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