ヒロアカ431話『more』を読んで 作品世界の外側
※あくまで個人の見解です
単行本書き下ろしの431話は、作者あとがきでこう述べられている
作者の言う『キャラクターを解放する』とは、作品から解放すると言うことに加え、考察民からキャラクターを解放するというメタ的なメッセージを含んでいると思われる。
元A組の同窓会の一幕、(わざわざ)上鳴と耳郎のカップリングが本人達から否定されるシーンがある。
また一方では、轟が唐突にお椀と箸作り体験に石川県(作品世界の外側=現実)へ行くと言う話をする。この部分の直前のページでもコミック誌を背景にしたコマが描かれており、意図してメタ的な演出が為されているように感じた。
これらの演出は、作者がキャラクター達を作品世界から解放する事と同時に、読者に対しても、キャラクター達の解放を求める作者からのメッセージだ。
読者にとって、キャラクターは作品の中の文脈によってのみ解釈される。そういった意味でカップリングなどは想像遊びの楽しさがあるし、原作で与えられた情報から作品世界の解釈を広げていく事自体は作品の楽しみ方の一つだ。
しかし、作者にとってはキャラクターたちには、一人一人の描ききれない背景があり、誌上には乗らなかった一人一人のストーリーがあり、10年にわたって描き続けてきた愛情や思い入れがきっとある。
大なり小なり作品全体の都合で動かしてきた彼らを作品からも読者からも解放するという意味で作者は431話を描いたのだろう。
それゆえ、同級生という狭い枠組みの中でカップリングをあえて否定したり、轟は唐突に輪島塗体験に行くと宣言をするのだ。
作品から解放された上鳴も耳郎もきっと作品世界の外側で誰かと恋をするし、轟も石川県にいくし、それ以外のキャラクターも同様だ。作品世界よりももっと広い世界が開かれていることを表現する事が、後日譚である431話の役割の一つなのだろう。
ヒロアカはA組の20人を余す事なく描こうとした作品だと思う。作中の所々で挟まるA組生徒同士の茶番では、これでもかというほど各キャラのセリフが詰め込まれる。
431話でも、居酒屋での会話は、コマごとのメインのセリフ以外に基本的にガヤ的なセリフが入っている。これらは作品の大筋には関係ないし、個人的にはノイズに感じていたが、こういう日常の描写をなるべく平等に配分する事で、少なくとも日常生活においてはデク視点、中心人物だけではなく、A組全員にスポットライトが当たるようになっている。
こういった演出が、この作品が特に魅力的なキャラクター達の作品であること、そして作者のキャラクター達への愛が垣間見える点で、僕がヒロアカを好きな理由の一つでもある。