そんなに地方色が必要ですか?
radikoがサービスを開始して今年で10年経ちましたが、テレビではネット同時配信を巡って、まだまだ難問が山積みのようです。
番組がつまらないとか、他の娯楽が増えたとか、理由は様々でしょうが、テレビ離れは加速の一途です。
その主たる理由は、メディアが何であれ「スマホで観られたらラクじゃん」という方の増加にあるように思います。ま、自分がそうなんですけども。
ネットの普及前から劣等感を抱き、2000年代にはルサンチマン化しかけていたラジオ業界は、多かれ少なかれ存亡の危機を持ち続けていました。
2005年、iTunesの日本上陸とともに普及したポッドキャストを始める局が増加しました。2008年頃は、ほぼ全局が、何かしらの番組をアップしていたように記憶しています。
権利の関係で既成楽曲を使えず、せっかく付いたCMをバッサリ切り捨てざるを得ないなど制約が多いことや、ダウンロード数以外に営業で使えそうな解析要素がない欠点から、個人的には疑念を持っていました。
しかし「とにかく新しいことにすがらなければ生き残れない」という焦燥感が全国のラジオ局から感じられたのは間違いありません。
そこへやってきた救いの神がradikoでした。最大の課題であった権利問題が一本化してクリアされたことで、電波とほぼ同じ内容を配信できるようになったわけです。
一方で、2000年代のテレビ業界にもそうした危惧を感じとっていた方はいましたが、他方で番組をネットコンテンツ化することを「軍門に降った」と捉える人も少なからず存在していたようです。
そうした背景が影響したのか、テレビの再配信サービスには個々に様々な企業が絡み、サービスの足並みが揃いませんでした。
視聴者を抱えたいのはわかりますが、ユーザーとしては複数のサービスに加入したり、アプリを入れさせられるハメになりました。これがテレビとネットをさらに引き離す理由になったように思います。
そうこうするうち、海外からNetflixやらAmazonプライムやらと、巨大な資本をバックにオリジナルコンテンツを配信するサブスクサービスが日本でも普及しており、コンテンツを多数抱えるキー局も、いよいよ尻に火がついた状況となっています。
最も懸念されているのは、前掲の記事にもあるローカル局への影響です。
ネット同時配信が始まり、どの都道府県にいようとスマホでポータルサイトにアクセスされれば、ローカル局の存在意義は薄まってしまいます。
『水曜どうでしょう』のようにNetflixから誘致(たぶん)されるほど強力な自社コンテンツを持てるのは相当にレアケースで、最もポータル然としたTVerですらローカルコンテンツを取り上げていないのが現実です。
そんな中で今年3月、名古屋の民放4局がLocipo(ロキポ)という配信サービスを開始しました(テレ朝系列のメーテレは参加していません)。
これでテレビ局によるポータルサービスがまたひとつ増えてしまったわけですが、このように複数局がエリアで独自にポータルを持てるのはまだいい方で、それ以外のエリアがどう出るのか、しばらく様子見が必要です。
ところでラジオ、特にAMラジオはその昔から遠距離受信できるメディアで、その筋のマニアによれば、ローカルならではのCMや地元パーソナリティの方言を聴くのが楽しいそうです。
確かに僕も出張してホテルで最初にすることは、テレビのスイッチを入れて「ああ、俺はいま福岡(例)に来てるんだなぁ」と実感することだったりします。
しかしその一方で、ホテルを出て繁華街を歩いたところで、同じようなショッピングモールやファーストフード店が並んだ状況で、その地方ならではというものに接することはほとんどありません。
欲しいものはAmazonで済ませ、外に出たくない時はビザを頼み、ちょっとした買い物は近所のコンビニかイオン系のスーパーで、という生活はどの地方でも当たり前になりました。
以前、僕の住む名古屋に来てラジオを聴いた知人が「あんまり名古屋弁使ってないんだね」と言っていましたが、それは実際その通りで、長年この地に住んでいても、1年に2、3回それらしき言葉を耳にするだけです。70代に突入した団塊の世代の方ですら、ほとんど東京の人と変わらない言葉使いです。
観光客が求める「だがや」だの「なも」だの「みゃあ」だの言いながらエビフライを貪る名古屋人に出会すことは滅多にないでしょう。
そうした中で地域色を出していくことは、時折無理があるようにも感じます。
各局が自社番組を応募する賞では、この「地域色」が求められることがあり、極論を言えば「味噌煮込み喰ってる名古屋人」「きりたんぽ喰ってる秋田県民」というステレオタイプの作品が受賞しやすいのです。
以前友人が「レコードやCDが売れない」というテーマで作ったドキュメンタリー番組に対し、「地域色が薄い」などと明後日の方角から批評が投げつけられていたのを見て閉口しました。
音楽業界の苦悩を描くのに地域など関係あるはずがありません。まるで「音楽業界のネタは東京の局がやる。奈良県民は鹿のハナシでもしてろ」と言わんばかりです。
「ローカル局」という括りの中で、こうした賞レースは「全国うまいもの博覧会」になってしまったような気がします。東京の人に気に入ってもらえればよく、地元ではさほど食べないようなものが、その土地を代表するグルメになっているわけです。
しかし、今や東京を基準にどの地方を見ても、人々の生活や環境に著しい格差はありません。
その上、様々な娯楽や情報が細分化されすぎて、キー局が何局あろうと、BSだのCSだの使っても網羅することが難しくなっています。テレビ離れも、そこに一因があるような気がしてなりません。
ローカル局は、そこに地域色が微塵もないとしても、自分たちでなければ追いかけられないものを追求するべきだと思います。東京のメディアから時代の先端や息吹を感じることは、今後どんどん少なくなっていくはずです。
報道にせよドキュメンタリーにせよ、エンタメにせよ、どこが発局になっても、それが唯一無二のコンテンツであれば、全国から支持されるのではないでしょうか。
ネット時代にローカル局が生き残る道があるとすれば、キー局がカバーできていない事象に進んで足を踏み入れ、それを余すところなく伝えることしかないと考えます。