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ラジカルなものを作りたい衝動

前に僕の就活について書いたことがあります。

この時、放送業界に進もうとしたのは、図らずも内定を受けてしまった企業から逃げるためでした。
とは言え、それまで放送業界に関心がなかったわけではないのです。

この年末年始、実家に帰っていたんですが、そこで小学生の時の卒業文集を見ていたら、12歳の僕はこんなことを書いていたんですよ。

フジテレビに入ってプロデューサーになりたい

出典:某小学校卒業文集(1982)

撮影しときゃよかったな。

さて、時は1982年3月のことであります。
世は漫才ブームがピークを迎えており、『THE MANZAI』『笑ってる場合ですよ!』に加えて、前年の秋から『オレたちひょうきん族』のレギュラー放送が始まっていました。

この『オレたちひょうきん族』ではコンビをバラバラに組み替えたり、ビートたけし、西川のりお、おさむ(ザ・ぼんち)らのピン起用などによって、漫才の巧拙よりタレント性を重視、その結果漫才ブームを終焉に向かわせます。

当時ビートたけし信者だった僕は、たけしさんの芸風とこのフジテレビの方向性が、既成概念を壊す点で共通していることに気づきました。
お笑い芸人になる気はまるでありませんが、ラジカルな何かを作りたい衝動はあって、それがフジテレビなら可能だと考えたのです。

我ながら意外だったのは「ディレクター」ではなく「プロデューサー」という仕事に興味を持っていたこと。
ひょうきんディレクターズの面々は画面を通してよく知っていましたが、「プロデューサー」がどんな仕事か、12歳ながらに察していたんだと思うわけです。
たぶんコンビをバラバラに起用することも、ディレクターたちを積極的に画面に出させたことも、すべてプロデューサーの仕業なんだと。

ラジカルなコンテンツ作りへの衝動はその後も続き、中学では音楽、高校で演劇、学生時代には文字表現を吸収し、紆余曲折あって現在に至ります。
社会人になってからもクソコラ師、ここ3年でのボカロP活動やイラストなど、運良くやりたいことは仕事を通して叶えられたつもりです。

一周まわって12歳の願望に目をやると、if...の世界観にぞっとしつつ「さて、これからどう生きよう」と思った次第であります。

くれぐれも、明るく元気に健やかに暮らしたいもんです。

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みくばんP
ラジオ局勤務の赤味噌原理主義者。シンセ 、テルミン 、特撮フィギュアなど、先入観たっぷりのバカ丸出しレビューを投下してます。