「わたしは分断を許さない」観てきました

ずっと前から気になってはいたけれども、タイミングが合わなかったドキュメンタリー映画の再々上映にようやく行くことができましたので、感想をつらつら書こうと思います。

監督の堀さんは映画の中で、「大きな主語を使う」ことこそが分断を生む主因である、と繰り返し言っていますが、これは本当にその通りだと思います。
僕自身、物心ついた時からゲイであり、「男とはかくあるべし」という言葉に都度都度傷付いていたような時期もありました。最近のニュースでも、やれ菅政権がどうだアメリカがどうだ老人はどうだ・・・と主語の大きな議論ばかりが跋扈し、真実を理解するための解像度が上がらないことばかりです。
たしかに事をシンプルにしたいのであれば、主語を大きくした方がわかりやすいのです。でもそれだと、白黒はっきりついて分断が生まれてしまう。実際は世の中、善も悪も複雑に絡み合っている…というか何が善で何が悪かは立場やタイミングやものの見方によって全く異なってしまう。善悪なんて極めて曖昧な線引きなのに、単純化させて理解したつもりになるがために、それが分断の悪循環を産んでしまうのだと思っています。

この映画を観ながら、ふと新卒で最初に入った会社でのエピソードをいくつか思い出しました。
一つは、会社の労働組合で推進していたボランティア活動でのこと。缶コーヒーに付いているプルタブを10万個集めて車椅子を寄付するという活動を実行するために、みんなでゴミ箱からプルタブを拾って集める、なんて取り組みを会社として推進していたのですが、僕はこれを「助けた気分になるだけで、何の効果も果たしていない」と批判しましたが受け入れられませんでした。たしかに「知る」ことだけでも意義があるかもしれません。でもそれが及ぼす効果がいかに最大化するかを自分なりに考えない限り、ただの自己満足になってしまうような気がしたのです。

もう一つは、会社の取り組みとして東日本大震災直後に復興支援のために現地に派遣された時のこと。僕の業務は基本的に現地へ行って一般家庭の安全性を確認して回る業務だったのですが、途中で津波の傷痕が深い塩竈市に立ち寄ることになったのです。現場の悲惨な有り様を見るために。今思えばただの野次馬同然です。みんなでひっくり返ったトラックとかを見ながら窓ガラスを隔てて写真を撮る中、僕はふと冷静になってこの窓ガラスによる分断による違和感に気付いたのでした。この様子を現地の被害者の関係者の方が見ていたらどう思っただろう、といった共感であったり敬意が欠けていたんだと、今にして思います。

この映画の中ではいろんな種類の分断が群像的に描かれています。日本の中だと、福島の被災者や沖縄の米軍基地移設に反対する人たちや、現地で拉致被害にあった戦争ジャーナリスト、在留管理局に囚われる「難民」たち。海外だと、イスラエルのガザ地区や、香港、ミャンマーにおける軍と民間人の分断。これらの分断の間には、互いの立場に対する敬意や共感が欠如し、対話する機会が完全に奪われてしまっており、分断どころか断絶といってもいいような姿が描かれます。

この分断に対して思考停止の悪循環を生むのが「大きな主語」による乱暴な単純化、と言われます。
SNSや各種メディアによって伝えられる情報の量自体は多くなりました。ただ、真実を曲解した、あるいは完全なる捏造が大きな主語を用いて伝えられることも、特にこのコロナ禍によって増えてきたように思います。
僕らは食べ物や寝床に気を使うように、こういった情報の受発信についても同じくらい繊細にならなければ、この世界の分断に知らないうちに加担してしまうのかもしれない、と薄ら寒い気分にもなりました。

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