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2020年始にメキシコ・キューバで一人旅してきた備忘録です。
人と人との違いを認め合うって言葉にすると簡単だけど、難しいよね。 違う理由がわからないから「なんでできないんだ!」と腹が立ったり、「あいつは根本的におかしい」と存在を全否定することになる。 自分と他人は置かれている状況も違えば、考え方も価値観も違って当たり前なのにね。なんで同じであることにそんな躍起になるんだろう。 多様性をもった組織のほうが、総体として強いってのもあるんだけど、多様な価値観を持つってのはなかなか難しい。不愉快なこと理解できないことも多いし、「多様性を認
最近建築関係の仕事をしているので、心に残った建造物についてあれこれ思い出しながら書いてみようと思う。 一番心に残っているのは、ルワンダにあるキガリタワーだ。 キガリの中心部において、アフリカには似つかわしくないガラス張りのオシャレな建物で異彩を放っていたというのももちろんあるが、一番のポイントはキガリの虐殺祈念館から見た、丘に一本そびえたつ様子であろう。 虐殺祈念館は、ジェノサイドの際の人々の墓も併設されていて、亡くなった方々への弔いの意味も込めて、こんな素晴らしい建造
ずっと前から気になってはいたけれども、タイミングが合わなかったドキュメンタリー映画の再々上映にようやく行くことができましたので、感想をつらつら書こうと思います。 監督の堀さんは映画の中で、「大きな主語を使う」ことこそが分断を生む主因である、と繰り返し言っていますが、これは本当にその通りだと思います。 僕自身、物心ついた時からゲイであり、「男とはかくあるべし」という言葉に都度都度傷付いていたような時期もありました。最近のニュースでも、やれ菅政権がどうだアメリカがどうだ老人
タイトルの件、Twitterで観るまではそんな審議が行われてるなんて知りもしなかったのですが、日本最大のゲイタウンである新宿2丁目を抱える新宿区なら当然可決、と思いきや否決だったそうです。 党派ごとの意見がどうのだとか、進め方が強引すぎて賛同得られなかっただとか、あれこれ噂は聞きましたが、それにしてもがっかりです。 この区民憲章の言葉、「誰もが安心して住み続けるまちにします」の「誰も」にLGBTは含まれないのでしょうか? 「心の触れ合う 思いやりのある福祉」に愛し合う同性パ
最近コンサルの仕事が楽しくなってきた。出来ることが増えてきたというのもあるし、確実に困ってる人の助けになれてる実感が生まれてきた、というのもある。 すっかり自信を無くしている企業や経営者に、自身の強みを思い出してもらい、猿真似で無い戦略を一緒に考えるのは、超大変だけど楽しいし、やりがいがある。 その中で、その会社の存在意義は何か?みたいなことを考えていくと、単に利益を稼ぐだけが戦略なのか?という思いが出てくる。 企業のステークホルダーは、株主、従業員、地域、取引先、業界などな
なんでこんなことがありうるの?と思わんばかりのアホなことが起きすぎてるような気がする。 森さんの差別発言に続くおじさんたちの炎上聖火リレー、菅さんの息子への接待、ワクチンについての無責任な報道たち、民衆の無責任な給付金ねだりなどなど。たぶん他にももっとたくさんある。 僕の見る限りの近くではこんなアホなこと一切無いし、果たしてこれが同じ国で起きてることなのか、と疑問に思ってしまいたくもなる。 国、と書くとなんだか途端にネトウヨっぽくなってしまうのも嫌なんだけど、あたかも遠い異
そーいえば先週長らく通っていた指揮法教室の発表会だったので行ってきました。 かれこれ習っていた期間は5年強くらいか。もう今は指揮はおろか楽器すらろくにしてない日々ですが、意外と観に行ってみると自分の指揮観みたいなものは生きていて感心です。 指揮というのは本当に本当に難しいです。 いなくても合奏自体は回るけど、いざという時のキメみたいなのを演出する際には絶対に必要。それでいて、基本的にはずーっとソロでチラチラ動いているだけっていう。 余計な動きをするだけで音楽の邪魔になる一方
最近何やらモヤモヤすることが多いです。 ・みんなが発信者になる意味ってあんまなくない?note然りYouTuber然り。大半の有益な情報はとっくに先人たちが書籍やらなんやらでまとめてくれてるし、変に煽られるような見出しばかりで余計に混乱する。 そもそも僕は学生時代におよそ400冊分の書評をブログに掲載していたけど、あの行為に意味が無いと気付けたおかげで途中でやめることができた。400冊分書評書いても、中身なんてどうせ覚えてないし、「見られるための文章」を書く能力と中身を深く
アウトプット、たぶん全然得意じゃない。むかーしにもまじめにコツコツブログやってたし、本の感想せっせと書いたりしてたけど、そもそも相手の立場、読み手の立場に立って物事を考えるのがダメだ。伝えたいこともさしてない。どちらかというと吐き出したいだけ。 自分がひたすら考えたりするのは好き。自分で完結する方が全然やりやすい。そういう意味では今の仕事は合ってる。ある意味、自己満足で突っ走れる仕事。 同様の理由で本書いたりするのはあんま得意じゃないと思うし、私小説みたいなのしか書く才能は無
最近、長い付き合いの友達が亡くなった。一時期は本当に毎週のように連れ立って飲みに行っていた友達で、未だに信じられないというか理解できないというか、ふわふわした気持ちだ。 僕はこれまで叔母や祖母らを自らが看取ったこともあるし、去年も同い年の友達を亡くしており、人の死になんだか慣れてしまいつつある。これが歳をとる、ということなのか。 今は元気な僕の友達たちも、ひょっとしたら来年には会えなくなっているかもしれない。あるいは、人生にサヨナラを告げるのはひょっとしたら僕かもしれない
年始の取るに足らないことたち。 人付き合い最近まじでこれがあまり必要無くなってきている。心の老化?遊びたい欲も飲みたい欲も全然無い。誘われたら、まあ行かなくは無いかなってくらい。 コロナの影響である意味ルーティンと化してはいたけどなんとなく断りにくい飲み会みたいなのが減ったのはすごい良かったと思う。 あと自分自身も毎週無駄に息抜きと称して飲みに行ってたけど、あれも特に不要だった。 アウトプットこうやってnoteとか書いてるけど、根本的に僕はアウトプットがあまり得意でない。
仕事のこと 今年は転職もしたし新たなキャリアで仕事も大活躍できたし、仕事的には大躍進の一年となった。自らの手腕についてもかなり自信が出てきたし、大概のプロジェクトではビビらなくなってきたように思う。ここはすごく良い進歩。 一方、キャリア的には今の職種でそろそろ2.5年を迎える。当初は1年保てば十分かとかなり舐め腐ったつもりで入ったのに、キャリアアップやプロモーションまで視野に入るようになってしまい、自分がまさかこんな感じになるだなんて。人生とはわからないものです。 正直飽きて
本日10/11は「国際カミングアウトデー」だそうで、今日は僕なりのカムアについて考えていこうと思います。 まず、僕は家族にはカムアしていない、けど学生時代の友人や社会人での同僚たちへは「聞かれれば答える」と言ったスタイルが基本です。こうなったきっかけは、二社目の外資系企業に転職した際に、「外資であればみんな当然カムアしてるんだろう…」という極めて軽率なきっかけでありました。(結果、社内でカムアしてる人はほとんどおらず、妙に目立つことに、、 今後はなるべく近いうちに家族へのカム
最近芸能人の自殺のニュースが立て続けに起こって、嫌になりますね。僕はこう見えても意外と繊細なところがあって、朝から交通事故とか殺人事件のニュースを見るのが嫌だから、そもそもテレビを観る習慣も無くしてしまった記憶があります。 今は大してテレビも観やしないけど、それでも名前聞いたことある人の訃報は気持ちが塞ぐものです。 それにしても今年、Covid-19に始まり、オリンピックの延期、レバノンの爆発事故など、あまりに暗いニュースばかりすぎやしませんか。明るいニュースがここまで無いも
突然ですが、僕はぺちゃくちゃ喋って説明したり、論理的に物事をまとめるのはそれなりに得意ですが、即興的に思ってることを書いたり、人が感じていることに共感することはそんなに得意ではありません。特に「聞くこと」は昔から本当に苦手。だんだん退屈になってきちゃうし、あんまり理解する気もそもそも無さそう。「読む」ほうが全然好き。 思っていることを自分なりにアレンジやエスプリ利かせて書くこと、昔はそれなりに得意だって思ってたけど、noteとかだらだら見てて思うのは、自分はそもそも他人に理解
忙しさにかまけて全く更新してませんでした。本業優先なのでまあそりゃそーだろって感じなのですが、根本的に自分自身、文章を書くこと自体実は好きでも得意でもないことに気がつき始めています。(これはまた追ってどっかで書こうと思ってますが) そんな中ひさびさに筆を取ろうと思ったのはPridehouseの「おうちでカラフルトーク!」なる企画に良く知る上司と知人が本日出演し、そこでLGBT当事者ならではのキャリア感について語っていたからです。 たぶんここにそのうち当日の動画がアップロード