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追いついた近代、消えた近代

「変化が激しく不透明な時代」に「主体的」に対応するとはどういうことかをめぐっても、その内容を具体的なレベルで理解することはできない。(中略) 具体的なレベルで理解できなくても、そのような能力や資質を育成するために、大学改革を必要だということだけは了解される。

第4章 高等教育政策p162 
  

著者は教育社会学者の苅谷剛彦教でが2019年出版。著者紹介は下記リンクより。

 本書は平成くらいから行われてきた様々な教育改革とその混乱について、なぜこうなったのかを政府の文書を中心に明かしていこうというものである。引用が難しいのでしていないが、タイトルの「追いついた近代」とは幕末以来の欧米に追いつき追い越せの意味での「近代」であり、消えた近代とはそもそもmoderneがもつ近代化以降の現代までを含んだ「近現代」の「近代」である。そもそもの日本語の「近代」は英語同様に両方の意味があったが、日本語の「近代」にはいつしか「現代」の意味がなくなっていることを著者は指摘している。それがいつからそうなったのか、そしてそれが教育にどういう影響を与えたのか。
 「追いついた近代」のそもその出発点は日本が欧米と異なっている(遅れている)とする日本=特殊(後進)、欧米=普遍(先進)という思考様式である。これは現代でもごく自然に使用してしまう思考様式である。日本は諸外国に比べてIT化が遅れている、ジェンダー平等が劣っている、本当の民主主義が根付いていない等々、あらゆる分野で使用される思考様式である。それが日本がGNP世界2位になった1970年代くらいから日本は欧米に「追いついた」と自覚するようになり、追いつくまでの時代(幕末から高度成長期)を「近代」、その後を「現代」と認識するようになったと指摘する。
 ではそのような時代認識が教育の分野で影響を与えたか。これからは欧米に追いつくための教育(先進の知識を覚える)ことではなく、あるべき姿を「主体的」に考え、行動していくことができる人間になれるような教育が新たに求められた。ではなぜ主体性だったのか、実はそこに確固とした根拠がない。しかしそれは前提とされ、その前提に沿って演繹的に政策が出力されていると指摘している。しかし冒頭引用したように「主体性」の具体的な内容がわからないので現場にそれを解説する通知が出されるが結局ぼんやりとしているため現場が混乱する、実施したが結局どうなっていればいいのかが判断できないため、目的を達成したかどうかもわからず、とりあえず新しい方法論が振り返りもなく採用され続ける、という悪循環に陥ったと指摘する。著者はこれを「エセ演繹型思考」とし、実態を調査したうえで政策に生かす(帰納法的思考)姿勢の欠如として批判している。
 著者は「エセ演繹型思考」について法学特有のものして批判しているが、立法はあくまで「立法事実」に基づいて行われるので、帰納法的思考がないわけではない。そして近代が「追いついた」という自覚も日本に「主体性が欠如」しているという「事実」も官僚ではなく有識者がもたらしたものである。そうすると実は大きな問題は東大法学部出身者の法学的思考というよりも立法事実をもたらすアカデミックの世界に問題があるのではないかと思った。(実際現在の教育改革の方向づけたのは本書を読む限り香山健一という学習院大学の教授である)
 著者の指摘する原因にあまり納得感はないが、いまの教育改革の混乱ぶりが実は非常に慣れ親しんだ、子供のころから学校でも言われていたような思考様式よってもたらされており、現時点においても非常に大きな影響力を受けているということがわかる一冊であった。

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