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チキンライスと選択

人生は選択の連続である
誰しもがこの言葉を聞いたことがあるに違いない。
ウィリアム・シェイクスピアの名言だと言われているが、実際は彼がツイッターを巡回していた時にコインランドリーの店主がツイッターでつぶやいた「人生は洗濯の連続である」というツイートを見て、パクツイしたものが有名人の目に留まり、バズっただけである。
この名言を作り出した張本人であるコインランドリーの店主は誰にも認められることなく歴史の闇に消えていったが、ウィリアム・シェイクスピアはこのバズツイートを皮切りに、劇作家としての頭角を現し始め、後世に名を語り継がれる存在となった。
そんな彼は、死に際にこんな言葉を放っている。

パクツイはだめよな

ウィリアム・シェイクスピア 1564~1616

彼は自分の選択を後悔していたのだろう。
ウィリアム・シェイクスピアはその身をもって「選択」の行きつく先を私たちに伝えたのだ。

ここに来て初めてタイトルを回収するが、僕の部屋には、3か月放置したチキンライスが置いてある。


オゥ…(嘔吐)

エドワード「ラブコメ主人公さん、人語を理解する料理(キメラ)の研究が認められて資格とったのいつだっけ?」
ラブコメ主人公「ええと…3か月前だね」
エドワード「チキンライスがいなくなったのは?」
ラブコメ主人公「………3か月前だね」
エドワード「もひとつ質問いいかな。チキンとライス、どこに行った?」
アルフォンス「!」
ラブコメ主人公「……君のような勘のいいガキは嫌いだよ」

3か月前はあんなにおいしそうなにおいを漂わせていたチキンライスも、今となっては通った空間に臭いを残す4次元的臭気物と化していた。
ここでまた冒頭の話に反復横跳びするが、これも選択の結果なのだ。
放置したから腐った。
処理していないからそこにある。
このチキンライスは、過去の自分の選択によって未来の僕に向けて送られたものなのだ。
実際このチキンライスは、僕の生活に大きな影響を与えている。
今この記事を読んでいるあなたも、料理を腐らせてイケてるインテリアとして部屋に置いておきたくなるように紹介していくので、インテリアとして置きたくなった!という人はぜひコメントにてそのかわいい声を聞かせてください。

腐ったチキンライスを部屋に飾るメリット

1.親除けになる

自己紹介が遅れました。16歳の思春期真っただ中の高校生です。
ラブコメ主人公という名前でnoteに記事を投稿しています。
そんな思春期真っただ中の僕は、自分のパーソナルスペースを侵害されることを極度に嫌っている。
特に親との関係が悪いわけではないが、自分の領域に侵入されるのは、言葉にできない気持ち悪さがある。
ちなみに気持ち悪さは チキンライス > パーソナルスペースの侵害

2.おしゃれ

ただただおしゃれ、それでいて芸術的。
生命を維持するために必要なエネルギーの摂取源である食事に、大量の微生物の死骸が織りなすパターン、生と死のコントラスト。
軽妙洒脱とはまさにこのこと。家にゲストを招待して格の違いを見せつけよう。

3. 選択肢の一つになる

ここで冒頭の選択の話を持ってくるテクニック。これはあの日見た虹よりエモーショナル。
誰でも通勤通学は憂鬱なものだが、どのようにして自分の中で折り合いをつけているだろうか。
(ラブコメ主人公さんのnote記事を読んで憂鬱を吹き飛ばしてます!)
僕の心の中に住まう人格の一つである全肯定ホワイトラブコメ主人公が答えてくれた。そういうお世辞はいらないから黙ってハートマークを押せ。
話がずれてしまったが、僕は通学の憂鬱さを天秤にかけることで解消している。
一方に憂鬱を乗せ、もう一方にチキンライスを食べて腹をこわすという選択肢を乗せる。
未だにチキンライスが負けたことはない。連戦連勝である。別名任天堂法務部。

まとめ

結局選択なんてものは突き詰めれば「やる」か「やらない」の二択でしかないのだ。このチキンライスを捨てるという選択肢で「やらない」を選択し続けているだけなのだ。
そしてそれはどれだけスケールが大きくても変わらない。死ぬか生きるか、結局それも二択でしかないのだ。
このチキンライスを捨てる選択肢をとるか、僕が死ぬのが先か。チキンレースはもう始まっているのだ。



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人を喜ばせるか、喜ばせないか。
どちらを選べばいいか、わかるね?













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