第1回 2021年8月3日
ぼくは忘れることができない。老夫婦が探しもののために荷物をあさり、受けとったものとともに詰め直す音を聞いて、ふと幼いころに行った海外旅行のことを思い出す。あのころはまだ両親がいて、姉がいて、それなりの家族のかたちがあった。いずれ崩れ、父は突然いなくなった。姉は地方へ働きに出て、ぼくは家を出た。この愛すべき家に残された母と猫は次第に抑うつを抱えるだろう。あのころ、病気を抱えたのかもしれない。その数年後にふたりともいなくなってしまった。おととしの7月に亡くなった母の部屋の机の上には煙草が一本、転がっていた。雨が降って、枕元にあった『鏡花随筆集』を手に取る。煙と雨が、あのころといまを繋ぐ。雨のゆうべ。
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コロナからオリンピック、小山田圭吾と小林賢太郎の退任、ルックバックの熱狂、オリンピックの開会式、自粛、「自宅を病床のようにして」という到底理解できない言葉、対応していると言いながら発生する病床不足、コロナと五輪の関係性の否認、強いられ失われた街の営み、ルックバックの修正──ぼくたちの生はどこにあるのか、ルサンチマンと集団ヒステリーのなかにしか、制度の奴隷となり、制度の番犬となることで得る自意識のなかにしか、ないのだろうか。どの立場であっても、制度のための制度の話しかしない。割りきれないものを抱え、反省し、学び、それでも生きてゆく存在である──かならずしも適応し、進歩するのでないとしても、それでもなお──ということが忘れ去られている。「正しさ」は絶対なのだろうか? 「正しさ」の前に、疲れた心を抱えてもなお「疲れた」と表明ができないことは、はたして「よく生きる」ために必要なことなのだろうか。
ずいぶんといろいろなことが遠くなってしまった。ぼくが大学生のころ、東日本大震災が起こった。そのあとのSNSは、見るに堪えなかった。しかし、いまよりもずっとマシだっただろう。ぼくらが愛するカルチャーは絶望の淵にあっても、まだ死んでいなかった。あのころ手に取って途中で読むことをやめてしまった小説を、亡くなった母が読み終えることのできなかった小説を、ふたたび手に取ろうと思う。母は言った。
「寝る前に読むと気持ちよく眠れる」
そう、これは眠ること、寝室の暗闇から始まる小説だ。
ぼくが愛していたのは、そんな夜だった。そして続く一節。
虚無のなかにあって、思い出はときに、甘美な苦痛を与える。なんとか繋ぎとめていたものが崩れ去ろうとする一方で、忘れることができないぼくは移ろうもののなかで置き去りにされる。そこに救いはあるのだろうか。それはわからない。
『失われた時を求めて』を読み終えるまで、そのときにあったことを、思い出されたことを。ぼくは何を忘れ、何を忘れることができないのだろうか。
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