気味のわるい戦いに、はまっている。
最近、投資を覚えた。
と言うのはかなり大げさかもしれないけど、お金の使い方を考えるようになった。
今までは、目的が達成されるなら価格が安い方を必ず選び、コスパを追及しすぎてコスパと書いてシギハラと読むのようなレベルで生きてきた。
根本的に目的主義だから、空腹を満たすためなら何だって食べるし(トマト以外)、かわいいパンを一つずつ買うより値下げした食パン一斤を食べていたし、学生のときは少量でもふっくらとしてコスパが最強に良いはんぺんをひたすら食べていた。東北の冬の寒さに耐えながら、セブンまで小走りで向かい店員さんに「はんぺん、全部ください」と言っていた。
別にお金があるないに関わらず「空腹を満たす」ためなら
何を、どう摂取しようが気にしなかった。気にしないというよりは、気にならない。
そんな引くレベルでコスパ命だった私が、お金の使い方を変え始めた。
例えば、よく行くカフェでよく頼むアイスコーヒーよりも、少し高いフラッペを頼む。これは私がいつもより特段に集中したいときや、新しいコトを創ろうとしているときの現象。200円ほどしか変わらないけど、私にとっては大きい。それは決して、金額の問題ではない。場合によっては300円でも500円でも、1000円でも出す。
つまり、その「成果」にかけている。
いつもより少額ではあれ、高い金額を出しているということは、
お金というものを使って「私がそこで行い、得られるコト」にかけている。お金をかけられた私は、焦る。この数時間で何かを創らないと、と。
でも変に焦っても無意味なことは分かるから、まずは考えることに集中する。
そんな「お金をかけた自分 VS お金をかけられた自分」という意味不明なバトルを一人で繰り広げているのは気味が悪いけど、何となく面白いから続けてる。
その一方、心の中がモヤモヤするというよりかは、喉の奥から重音が響くような感情に駆られたとき、いつもは外に出て普段より良いものを食べて発散することが多かった。つまりいつもよりお金を使う。でも、重音は鳴り響いたまま。
今朝、いつもより少し早く起きて、クメール語(カンボジア語)を勉強して、朝食をちゃんと食べて、いつもよりほんの少しだけ早く家を出た。そのとき、喉の奥の重音はぴたっと止まっていたし、もしかしたら地面から数ミリ浮いているんじゃないかってくらい軽いキモチになっていた。
お金をかければいいってわけじゃないなあ
やっぱりお金は一つの手段だなあ
と感じた。もう少し、お金について色々考えていきたい。