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髪を切って気づいた、当たり前で回りくどい話。


髪を切った、ばっさりと。30センチくらい。

4〜5年程、ほとんど同じ髪型だった。黒く、長い。
大学2年くらいまで、赤だったり茶だったり短かったり少し伸びたり。

ヘアスタイルを変えることは、一般的には楽しいことかもしれないけど私は億劫だった。

億劫というか、恐怖というか、宝くじというか、
雨が降りそうな時の洗濯干しみたいというか。

何となくだったのかもしれない。

何となく朝起きて、
何となく朝ごはんを食べて、
何となく家を出て、
何となく美容室にいた。

もしくは「せっかくだから」という思いもあったのかもしれない。

せっかく美容室に来たんだから、
せっかく同じ金額出すんだから、
せっかくの休日だから、
せっかく生きてるんだから。

どちらにしても、ショートヘアになった。


会う人に「髪切ったね」と言われるたびに、
何故か「あぁバレてしまった」とバレて当たり前なのに思っていた。
恥ずかしさで。

そうこうしているうちに、もう一ヶ月が経った。

この一ヶ月である程度の人に会って、ある程度「髪切ったね」と言われ、ある程度「バレてしまった」経験をした。

だけど、だんだん

私は「自分は髪を切ったばかりのひと」
と思っていたが、周りは「いつもの姿」になっていることに気が付いた。
それはそうだ。何故なら、実は周りの方が見慣れているから。

というのも、例えば2時間一緒に誰かといるとして。
その人は「髪を切ったわたし」を2時間視界に入れ続ける。

もう2時間も視界に私を入れ続ければ、情報はアップデートされる。
その間、私は私を視界に入れることはない。
ましてや何回か会えば、私は完全にショートヘアの人間だ。

それ以上もそれ以下もない。

だけど私は、1日において2時間以上自分を見ることはない。
平均的に1時間もないと思う。
シャワーを浴びているときだって常に鏡を見るわけではない。
外出中、鏡を見るときだってさっと見るだけ。
だから、ショートヘアーの自分を見ると

「あ、どうも」とよそよそしくなる。

私は私を見る時間が、極端に短い。

今だって3時間以上カフェにいるから、隣に座っている店員は私の4日分くらい私を視界に入れている。


実はこれって、自分の存在は他人の評価で出来上がっているという話につながる。


「こんにちは、私は優しい人です」
という人がいても、周りから見て優しくなければ、その人は優しくない人という評価になる。
「こんにちは、僕はひどい人です」
という人がいても、周りから見て優しいひとだったら、その人は優しい人という評価になる。

「この間まで髪長かったんです」 
と何度言っても、もう私はショートヘアの人間なのだ。


人はそこまで他人に興味がないよ、
というけれど結局“評価”で存在ができあがるのではないか。
自分では気づいていなくても、そうなっていることが多いのだ。

なにが言いたいかというと、髪を切ってよかった。朝がとても楽である。


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