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【読了記録】今月読んだ本 ~24年10月編~
秋
瀬地山角『炎上CMでよみとくジェンダー論』
CMは企業の顔、一番人の目につきやすいものである。その表現を一つ間違うとSNSが発達した現在では炎上→ブランド力低下、なんてことはしばしば見られる。例えば化粧品CMの炎上だと「女性は美しくないといけないのか」という炎上理由も理解しやすいものである。ではどういったCMを作るべきか、というのも言語化が難しいものである。タブーはわかるが、理想的なものが何かはボンヤリとしか浮かばない。
そこで本書では[外見・容姿⇔性役割]、[男性⇔女性]で4象限を作り、炎上CMおよび広告がなぜ炎上したか、逆に称賛されたCMがどういった内容かを分析している。
おおむね、炎上理由は訴求層(CMのターゲット)を間違ったり、メッセージ性が旧時代のものだったり、ある程度のパターンはあるという印象だった。逆にそれを間違えずに作り、そこに意外性や工夫をこらしたものが称賛されていた。4象限の分類の面からも分析が的を射たものだと感心した。
私はそういった類のものは基本静観のスタンスなので、あまりそういったものを話題にしない。見てみると時代錯誤だなという表現もあるが、人それぞれの受け取り方もあるのでこれを二元論で語るのは避けている。ただ、巻末に付録として炎上CM例(それも70年代のものから!)がまとまっているが、著者が「ユーモアとしてアリ」としているCMでも個人的にはナシというものもあった。人それぞれだという他ないが、CMの公共性を考えると万人から受容されるCMを作る難しさも同時に感じ取った。また、ジェンダー論の本としても非常に良い内容だった。
長谷部愛『天気でよみとく名画 -フェルメールのち浮世絵、ときどき漫画』
天気の観点から切り取った美術鑑賞の本。見たこと無いテーマということで手にとってみた。天気と風景は切っても切り離せないが、西洋絵画で風景画が確立したのはせいぜい4~500年前程度のフランドル地方(現在のオランダや北フランス)である。市民の国であったオランダでは、裕福な市民の家を飾るという需要で風景画(風俗画も)が発達した。それまではあくまで風景は背景という扱いだったため、本書でもその頃の絵画から紹介している。一番古くてもピーテル・ブリューゲル(子)の『雪中の狩人』(1565年)という作品である。あつ森で『みごとなめいが』として登場している作品でもある。なお当時のヨーロッパは非常に寒く(この本に詳しい)、本作のようにオランダは全体的に平坦な土地だったため雪をテーマとした絵画も数多くある。閑話休題。
登場する作品は前述のフランドルの画家たちや印象派前夜とも言えるターナーの靄がかった表現。「空の王者」とも称されたブータンの画面上部に広がる高い空。モネにゴッホのポストも含めた印象派たちの描く空。そして日本からは歌川広重や葛飾北斎の表現が掲載されている。雲の種類やその形成メカニズム、地域独特の気候に合間に入る天気雑学など著者の気象予報士ならではの視点が散りばめられており絵画に対する新たな見方を得られてとても良かった。
浮世絵では広重と北斎というヒットメーカー同士の比較もしているが非常に興味深かった。広重は写生重視だった雲の種類がわかりやすく、色も実際の空に近づけようとしていたことから比較的どういった季節だったり天気だったりかが判断しやすい。一方北斎は形にこだわったと思われる作品が多く、雲の種類も判別しにくいものが多い。天気から両者の浮世絵に対する切り口の違いも垣間見えるのは興味深かった。特に北斎の絵画は引きが抜群だが、よく観察するとこんな形の雲があるかも怪しい事が多い。広重は対象を観察して写実的に再構成したようなものが多い。日本にハッキリとした四季があることも相まってより面白い分析おり、非常に良い観点だと思った。
最後の方には漫画表現もいくつか取り上げており、そちらも中々楽しめる内容だった。最後にいつも載せていて恐縮の限りだが、下記動画を合わせて見るとより楽しいかと。
田中優子『遊郭と日本人』
意外かもしれないが風俗が合法な日本は世界でも珍しい方である。なお売春は日本でも勿論違法である。
江戸の風俗街として有名だったのは吉原、いわゆる遊郭である。ここは日本文化が最も色濃く残る場所だったが、著者は「遊郭はもう二度と存在してはならない制度」と明言している。なぜならここにいる遊女たちは遊郭に囚われて出ることが基本できない、籠の中の鳥のようなものだったからである。
遊女の多くは地方の女性が借金返済のために遊郭に連れてこられて働かせれていた。お金を稼ぐためには遊郭内でも位の高い遊女にならなければならず、そのためには芸や語りも上手くなければならない。故に、ただ美人であれば良いというものでもなかった。遊女たちは日々、芸の上達に非常に努めており、今のキャリアアップ目的の資格取得とは重みが全く違うのである。
遊女の年中行事も今では(少なくとも私が耳にしない程度に)全く姿形もない行事が多い。著者も例えているがパレードやファッションショーといったまるでテーマパークという表現が正鵠を射ている。外から見る分には面白いが実態がそれに即しているかは分からない。今と変わらないものである。
この本は遊郭文化の光と闇を上手く捉えた一冊である。そもそも前借金返済のため自由はない遊女は現代の倫理観では人権的に問題がある。また、江戸社会において女性が働いて大金を稼ぐ手段に選択肢がなかったというのも問題で、大金が稼げるからと言って女性として理想的な場所ではない。不特定多数の男性と関係性を持たなければならない上に、前借金もあるため遊郭の外という外の世界へも出られない。正に籠の中の鳥である。
よく創作でも耳にする独特の言葉遣い「あちき」「~でありんす」。これを廓詞(くるわことば)というが、これもどの地方出身か分からなくするためにも生まれたものである。遊郭はある種の標準語さえも人工的に作ってしまう土地である。
遊郭文化も最も日本的な作られた文化なんだと思った。その土地に根付いた文化ではあるが、それはあくまで土着のものではない。吉原という土地も日本でありながら、日本文化が色濃く残りすぎることで蠱惑的ともいえる魅力があった。これが遊郭なのだと。勢いで読み切ったが勉強になった。
平岡昭利『アホウドリを追った日本人 - 一攫千金の夢と南洋進出』
毎年夏に開かれている鳥人間コンテスト。この大会では滑空機部門や人力プロペラ部門などに分かれて人力飛行機の飛行距離や滑空時間を競い合う。琵琶湖上空に毎年人々を送り込み、そしてドラマが生まれる大会である。その大会に出場している大阪大学のサークル名は"Albatross"、印象的な名前なので昔からよく覚えている。また英バンド、フリートウッド・マックの名インスト曲にも"Albatross"という名が使われている(こちらは個性的なアートワーク⋯)
この"Albatross"、日本語に直すと"アホウドリ"である。そう聞くと印象が180度変わってしまうのは私だけだろうか。では、なぜアホウドリと呼ばれるかは考えたことがあるだろうか。それは簡単に捕殺できてしまうほど鈍重な動きに由来する。大柄な体格ゆえに離陸には滑走が必要で、それもあって捕獲が容易なのだ。そんなアホウドリ、明治後期には羽毛が欧米で高く売れるということで乱獲された過去がある。本書ではアホウドリを追い求めて、南洋へ渡った人々の知られざる近代日本史にフォーカスを当てている。
羽毛採取のやり方は主に撲殺、羽毛だけ採取して死骸は捨てるという目を覆いたくなるほど残忍なやり方である。数が減ってきたら次の島を探し、新島を見つけたら政府へ申請、民間が先んじて占有し後ほど国家が編入を追認するという現代ではあまり考えられないやり方だった。当然、一攫千金を追求した方法だと違法行為も散見され当時より大きく問題になっていた。過酷な労働環境や虚偽の申請、果てはアメリカなどの他国との領土問題にもなっていた。恐るべき点なのは密猟の手は北西ハワイ諸島まで進出しており、現在この区域が自然保護区指定になっているのも日本人のアホウドリ密猟が原因である。本書で私が一番驚いた箇所でもある。
一方で、さらなるアホウドリ群生地を求めて日本の南洋進出が加速し、結果として世界でも有数の海洋大国となっているの事実である。小笠原諸島が本州より遥か南に位置していながらも日本に属しているのはアホウドリ資源の確保が端緒である。政府としても当時衰えていたとはいえロシアや清が位置する北への領土拡大は望みが薄く、アホウドリ密猟が結果としてそれを推し進めた形になる。
アホウドリ事業拡大の末に獲得した南洋諸島沖合(EEZ内)において、現在マンガン・ノジュールと呼ばれるレアメタルを含む岩石の宝庫として再注目されている。広大なEEZを持つことはそれだけ巡視の目を光らせる必要があり、サンゴ密猟や海底環境の悪化など懸念材料も多い。
海洋資源に関連して近年ではサンマやウナギの漁獲量減も問題視されており、いつかは口にできなくなってしまう恐れもある。アホウドリは努力により個体数を回復しつつあるが、サンマ・ウナギはどうなのか。後先を考えない乱獲の行く末は、私達に何ができるのか、今一度考えたい問題である。
池内了『清少納言がみていた宇宙と、わたしたちのみている宇宙は同じなのか?-新しい博物学への招待』
https://seidosha.co.jp/book/index.php?id=3640
自分のほしいものリストにずっと入っていたので購入。多分ゆる言語学ラジオで触れてた本だった気がする。著者の池内氏は宇宙論が専門の著名な学者だが非常に文学、特に古典に造詣がある。池内氏は「グローバリズムの強調は時に文化の異質性を消去し、文化をひ弱なものにしてしまうという」という考えのもと「新たな博物学」を提案している。これにより理系の知識と文系の営みでより壮大な物語を発展させたい、と唱えている。端的に言えば「理系と文系の融合」だがこれに重きをおいた本も中々ないので手に取った次第である。
本書は13の章に分かれており、それぞれでテーマが異なる。例えば第1章の「すばる」ではすばる望遠鏡の物語から、枕草子の「星はすばる」の節、万葉集や古代中国の五言古詩に、すばるの西洋での呼び名「プレアデス星団」にまつわる伝説など広範な切り口で述べている。正に「新しい博物学」にふさわしい内容だと率直に感じた。他にも「じしゃく」や「かつお」、「ほたる」などもあり、古典文学を絡めながらの科学的視点での解釈も中々面白かった。
よく「異なる分野でも地続きだ」と言われることがある。例えば電気回路と材料学は異なる、とあったとして電気抵抗をゼロにする超伝導がより高温域で可能となる材料はなにか。電磁ノイズをより吸収する素材はなにか。など同じ理系(あるいは文系)で結びつけることは容易かと思う。ただ、文系と理系では接点があまりにも思いつかない。これでふと思い出したのだが、
![](https://assets.st-note.com/img/1731588438-w9bJRngdjfUO0thqDxzH7WML.png?width=1200)
たまたま見た動画(例のごとく、ゆる言語絡みではあるが)で「俗信は科学である」と力説されていた。今は廃れてしまった「食い合わせ」という考え方も昔は合理的な理由があった立派な科学だったと述べており、言われてみると確かにその通りである。何らかのアレルギーか、本当に毒性があったのかは不明だが過去の人たちが、同じ過ちを繰り返さないよう推論立てて禁じていたことは立派な科学である。
改めて考えるとこういった伝承レベルのものは科学と当時の文化が何かと不可分なものが多い気がする。例えば有明海などで見られた不知火は一種の蜃気楼で漁火が屈折して発生すると説明されているが、江戸時代以前は妖怪として扱われていた。これも俗信だが不知火が発生すると大漁になるという伝承もあるらしく、これも科学的な根拠が実はあるかも知れない。現代のように理系と文系で分けてしまっていることの方が実はおかしいのかとも思えてくる。
私は古典も現代科学も同じくらいの解像度で話せる人間になりたいのもあって、様々な本を読んでいるがこういった本がどんどん増えて欲しいと切に願う限りである。
以上5冊。学びになる本が多く自分を見つめ直すことも多い月だった。ではまた来月。