19歳、ホームレス記録。【その1】
ミャンマーに、1ヶ月滞在していました。半分は出家をしていました。
12月10日、日本に帰ってまいりました。僕の実家に僕の帰る場所はありませんでした。
僕は1ヵ月ぶりの実家にはまだ足を運んでいません。
ミャンマーのことも、実家のことも、需要がありそうでしたらいつか説明します。
12月10日。日本に帰国した当時の財布には100ドル札が1枚と1ドル札が1枚。59香港ドル。日本の数十円分の硬貨が入っていた。口座には3000円。僕は何らかの形で収入が入るまでは、このおよそ14000円で生きていくことになる。
今日は12月17日。
今日までを振り返ってみようと思う。
12月10日。
ミャンマーを出国した頃には日本でホームレスになることが分かっていたので、事前に一人暮らしをしている友人に泊めてはもらえないかと頼んでいた。
友人は快く私を招き入れてくれた。ミャンマーでの思い出話が盛り上がった。面白い面白いと話を聞く彼を見て、私は誇らしくなった。
「お前の人生楽しそうだな」「お前面白いな」そう言って貰いたくて生きているのかもしれない。とすら思えた。それほど彼のそれらの言葉は私を幸せにした。
彼に荷物を置いて行かせてくれとお願いしたところ、彼は快くイイよと言ってくれた。なんて心が広いんだろう。
僕は必要なものだけリュックにつめ、彼の家をあとにした。
12月11日。
母と話をした。もちろん音信不通になるという選択肢もあったけど、私はそんな親不孝はしたくなかった。自分が帰国して、無事であるということを会って伝えなければいけない。子として、親を心配させるわけにはいかない。
母と再会して、無事、無事を伝えることはできたと思う。
母と別れたあと、夜、偶然高校時代に仲良くさせて頂いた先輩と再開した。
これから先の生活について考え、かなり不安のあった僕は、先輩の笑顔と面白いな、すげえなという言葉に、嬉しくて涙が出そうになった。
ぐっと堪えて、笑顔であざっす!とつげ、先輩と別れた。
別れ際、先輩から24時間営業のマックやファミレスなら夜を越せるんじゃねと意見を頂き、マクドナルドへ。
そこへ高校時代の部活仲間が来てくれた。
その友人は僕がホームレスをしていることを知らなかったが、僕の帰国を知り、来てくれた。
あまりにも愛されていて、僕はまた幸せになった。
友は結局そのまま日が昇るまで僕の話を聞いてくれた。ミャンマーの思い出や今後僕がどうするのか、話せることはいくらでもあったが、明日も大学があるのに朝まで残ってくれたのは、きっと僕が独りで朝を迎えないように気を使ってくれたんだ。
それを僕に気を使わせまいと、何も伝えずにただそこに残ってくれた。その優しさにまた僕は幸せになった。
12月12日。
日が昇り、友人と別れた僕はアルバイトを探した。夜勤で働き、寒さと金欠をしのごうという魂胆だ。
その日の夜は、また別の先輩と過ごした。
その先輩は、僕にご飯を奢ってくださった。
なんのメリットもないないのにこんな男にご飯を奢るなんて、なんて優しいんだ、そして、僕はなんて恵まれているんだ、と、また幸せを噛みしめた。
12月13日。
頭からフケが出た。出家をしていたので坊主頭になっていたが、フケが出た。僕は銭湯に行った。久々のお風呂はあまりに気持ちよくて、5時間は入っていた。
その日の食事は銭湯にお金を使ってしまったので節約しなければならなかった。
生卵を2個食べた。
カラにヒビを入れ、上を向き、口の上で割る。
羽田からの交通費や既に決まっていた今後の予定のためにお金が必要なため、食費はできるだけ抑えなければならなかった。
生卵は、美味しかった。
30時間ぶりの食事だったため、タンパク質も脂質もビタミンも足りてなかった僕の喉には、栄養たっぷりの生卵は神の味がした。
お風呂上がりに美味しい生卵を食べれるなんて、なんて恵まれているんだと、また幸せで泣きそうになった。
12月14日。
初日の彼のアパートに荷物を取りに行こうとしたら、彼が風邪をひいていることを知った。
僕はもしやインフルエンザかもしれないと思い、冷えピタや介護食などを買い漁り、彼の住む部屋へ向かった。一人暮らしのインフルエンザは死んでしまってもおかしくない。
結局彼はなんともない風邪だったが、彼の無事を知れてよかった。
思えば夏があると言うだけでインフルエンザと決めつけるのはあまりに単細胞で、あー、きっと脳に栄養が足りてなかったな、と食の大切さを噛みしめた。
15日、16日、17日はまた次の記録にしようと思う。今日は少し寝よう。あぁ、寝ようと思ったら眠れるなんて贅沢だ。
19歳、ホームレス、今日も幸せです。