全てを捨てた彼らは、なぜ今「真実の愛」を指し示すのか?/The1975、待望の新作『BFIAFL』レビュー
1.はじめに
僕が心から愛してやまないバンド、The1975が今日(10月14日)2年ぶりに待望の新アルバムである『Being Funny In a Foreign Language(邦題:外国語での言葉遊び)』をリリースした。
最初に言っておくが、「このアルバムは「愛」をテーマにしている」とか、「恒例の1曲目の『The 1975』が今回はなんと歌モノなのだ!」とか、それを世紀の大発見かのようにまき散らすつもりはないし、「『About You』がマイブラの『Loveless』を彷彿させる音だぞ!!」とか「『Looking For Somebody (To Love)』が80年代のワム!やケニーロギンス風ですごい!」とか、そういうことももはや新鮮ではない。音楽の知識では僕より優れた人がSNSでワンクリックで見つかるだろうし、結局今の僕は無意識的に目にしたことを焼き増ししてしまうだけだと思う。
だから僕も、本作でボーカルのマティ・ヒーリーがしているように、自分のことを織り交ぜて書いてみようと思う。誰が興味あるのよ?という点については一度目をギュッとつぶってみて。自己満足の範疇でやってみよう。
2.The1975と「ポリティカル」
The1975は二部作とされる『A Brief Inquiry into Online Relationships(2018)(邦題:ネット上の人間関係についての簡単な調査)』と『Notes on a Conditional Form(2020)(邦題:仮定形に関する注釈)』を僕らに届けてくれた。それまで内省的なものや毒のある愛や性がテーマの曲が多かったが、これら2作から彼らは翼をより外に広げ、銃社会であるアメリカ批判や環境問題を蔑ろにする大人たちに中指を立てたりなど、現代社会の若者たちないしはカウンター精神を持つ人々にとってのスポークスパーソン(代弁者)となっていった。
しかし、マティ本人は「あくまで自分はポリティカルではない」と語る。それが僕には今まで納得がいっていなかった。僕にとって彼は社会問題に対する若者の声を大々的に曲のメッセージに反映する存在なのだ。ここでサードアルバムに収録されている"I Like America & America Likes Me"のとある一節を引用する。僕が今までいくつも聞いてきた様々な反戦に関する声明のなかでも、これはあまりにラディカルでクリティカルでいつまでも僕の心のなかで引っかかっている。
これほどまでにリアルに突き刺さる歌詞はあまりない。「若者を戦争にやるな」と言われてもそれは60年代からポップカルチャーというスポンジに吸収されつくされている叫びだ(もちろんこれが間違いなく重要なステートメントであるという点は言うまでもないが)。しかし、「子供たちはライフルなんかよりもシュプリームを欲しがってる」なんてダイレクトに言われた暁には僕らはもうぐうの音も出ない。あまりに的を射ている。
それに加えて、2年前にリリースされた4枚目のアルバムのリードトラックである"People"の威力も凄まじい。環境活動家のグレタ・トゥーンベリの声明を引用した1曲目から直に繋がる本曲のテーマは「ユースパワーの軽視に対する批判」であった。つまり簡単に言うと、若者をバカにすんじゃねぇってことだ。
「起きろ!!起きろ!!」というマティの絶叫からはじまる本曲は焦りと混沌を持ち合わせている。この「起きろ!!」というのは、ベッドから抜け出せという意味ではなくて「いい加減目を覚ませよ」と言っているのだ。先の世代はあまりにいくつもの問題を放置しすぎた。
しかし、声を上げた若者に対して社会は冷淡だ。「声を上げる若者=立派だ!」なんていうレッテルだけを張られ、肝心のメッセージは本当に届いているのだろうか?ところでなぜ日本人は彼女を呼称する際に「グレタさん」と敬称をつけるのか?「マララさん」はどうだ?グレタと同じ環境活動家のレオナルド・ディカプリオはなぜ「レオナルドさん」と呼ばれないのか?
まぁ敬称の話はあくまで余談だが、世界的に見てグレタ・トゥーンベリが嘲笑の対象に少なからずなっていることは明らかだ。The1975はそのような現状に対してパンクロックの体制を成して、こう立ち向かった。
この清々しいほどまでの痛烈な批判は僕の胸を激しく打った。僕の中のThe1975像がここでまた確立を遂げたのだ。
このように僕の中でのThe1975はポリティカルなのだ。特に3,4枚目あたりの彼らのスタンスが好きだ。これは僕が4枚目のアルバムから入ったのもそうだし、僕の一番お気に入りの3枚目が彼らの政治的立場を明らかにし始めたという点もそう。
3.僕の懸念事項(先行シングルたちを聴いて)
しかし彼らは本作から大きく舵を切ることになった。四方八方で言われているように今回の彼らのテーマは「愛」だ。社会問題や自身のドラッグ問題、ネットにまつわるあれやこれやなど、多角的な視点で切り込んできた彼らが辿り着いた答えが「愛」…
そのことを知ったのがいつだったかはもう覚えていないが、本アルバムの先行シングルの"Part Of The Band"のリリース前ではなかったことは明らかだ。もし僕が「本作のテーマは『愛』です」と聞いたあとであれば、本曲の第一印象がこれほどまでによかったはずがない。なぜなら本曲のテーマは明らかに愛ではない。まぁ少なくとも愛が主軸ではない。先に大テーマを聞いていたら「愛とは…?」と一晩中うなされたことだろう。
本作のテーマは、マッチョイズムやキャンセルカルチャーといった現代的なトピックや、共産主義やスマートドラッグといった社会全体で議論されるべき事柄などを網羅しつつ、マティ自身の自意識やこれまでのことを過剰なほど厳格に振り返っていくような、内省と現代社会批判を同時並行で行うという恐るべきものなのだ。
この所業には心底驚かされた。もちろんリリースから時差はあったが。マティが書く歌詞は非常にハイコンテクストだ。彼は物事をストレートに綴ることを避けるタイプだ。それを「イースターエッグ」と呼んでファンの解釈を楽しむような人だ。そういうところが好き…
まるで青春とその至り、苦しみを内省的に描いてきたファーストとセカンドアルバムの時期(2013~2016頃)と、視野を世界全体に広げていったサードとフォースアルバムの時期(2018~2020頃)の合わせ技みたいなものだ。これほどまでに魅力的で強力なカムバックは今まであっただろうか?
しかし、次のシングルカット曲である"Happiness"がリリースされ、僕のThe1975の新作アルバムに対するイメージはガラリと変わる。
今まで彼らのアルバムの2曲目はどれも非常に強いメッセージを含んでいた。ファーストの"The City"は例外的に(この頃の彼らはまだバンドのスタンスがはっきりとしていない時期だったので)ティーンの青春模様を描いているものの、セカンドの"Love Me"ではセレブの気取った姿勢をコミカルに皮肉をもって批判していたし、サードの"Give Yourself A Try"は人が年を取るうえでの避けられない変化と自分の過去についてを批判的に振り返りながら「とりあえず挑戦してみる」ということを訴えかけていた。そしてフォースの"People"は先ほど書いたように「ユースパワーを軽視すること」を批判していた。
このように、The1975はこれまでほとんどの場合、2曲目(1曲目はアルバム全体の雰囲気を表現するイントロ的扱いだった)は強いメッセージ性を含んでいた。それが当たり前だったのだ。しかし本アルバムの2曲目となった"Happiness"はそのような慣習とは全く違う様相だった。
この曲が言っていることは「君が僕に愛を教えてくれた」だとか「君の愛を示してよ」だとか、過去の2曲目たちと比べると明らかに社会的なメッセージ性に欠けている。当然、言うまでもないが、曲のクオリティは一級品だ。そこはThe1975は絶対に外さない。ただ、このような曲が2曲目、これほどまでに重要なポジションに置かれたことが僕のなかで強く引っかかったのだ。
それに加えて、今までの慣習として彼らがアルバムから最初にシングルカットするのは決まって2曲目だった。しかし今回彼らが最初にリリースした"Part Of The Band"は本アルバムの4曲目…この違いも僕のなかではすごく大きかった。いったいなぜ"Part Of The Band"は4曲目という位置なんだろうか…とアルバムの発売前は頭を抱えたものである。
その後に発表された"I'm In Love With You"もThe1975にしては違和感があるほどのストレートすぎる愛情表現が特徴の正統派ラブソングである。"Happiness"に続いてこちらも曲のメロディが一級品だ。しかしやはりメッセージ性には欠けている印象(何度も言うが、それが悪いわけではまったくない)。セカンドアルバム収録の"A Change Of Heart"をオマージュしているミュージックビデオも楽しい。
最後に先行発表された曲は"All I Need To Hear"。さっきまでの多幸感は嘘のように恋人(元?)の愛を乞うような、これまたとんでもなく美しいロマンティックな楽曲。どうやらネットのゴシップ情報によると前作にはマティの元恋人のFKAツイッグスについて触れる箇所があったらしく、その女性との恋愛を後付け的に歌ったものではないかと考えられている。その一方で本作はその女性との関係を取り戻すべく痛切な心の内を明かすマティのか細い歌唱が印象的だ。
以上の4曲の先行発表を経て、その約1か月後にアルバムの全貌が公開された。日本での発表は14日になりたての深夜だった。まったくどうでもいい話を今からするが、その時僕はめちゃくちゃSwitchで遊んでいて、オンライン対戦の待機画面の時にiPhoneから通知があり、LINEだろうと思ってみてみると、「The1975の"Being Funny In a Foreign Language"が入手可能になりました」と書かれていたので、Switchの電源をブッチし、すぐに1週目を聴き始めた。
では、みなさま大変長らくお待たせいたしました。お待たせしすぎたかもしれません。ここからアルバム全体の感想を書いていこうと思います。
4.Being Funny In a Foreign Language
Bluetoothのイヤホンをスマホと同期させ、アルバムのページを開く。昨日までは空白だらけだった曲の選出画面が、僕の大好きなThe1975の新曲で埋め尽くされている。正直、他の曲の出来なんてどうでもよかった。無論、公開済みの曲はすべて最高品質を保っていたし、聴かずとも他の曲だってそのはずだ。ただ、このアルバムは今までの彼らとは全く違うことはわかっていた。少し心が震えた。まるで好きな人に告白するような高揚感と不安感。僕は丁寧に1曲目の"The1975"の再生ボタンを押し、曲が始まった――
開始と同時に、アナログ放送の砂嵐のような音が一瞬だけ「ザッ」と鳴り、そして絶え間ないピアノのリフレインが始まった。歌が始まり、英語を少しは理解できる僕は歌詞を見ながら口を手で覆い、今目の前で、耳の中で起こっていることを噛み砕いていた。The1975が1曲目で示したのは僕が少し懸念していたこととはまったくもって逆のことだった。曲はマティの優しく語り掛けるこのようなボーカルで幕を開けた。
「君が17歳として今生きているなら、本当に気の毒に思うよ」――「愛」をテーマにした本作でThe1975は、最序盤で我々(若いリスナー)をここまで突き飛ばした。若く生きることの辛さや厳しさを説いてきた彼らにとって、このような言説は決してありえないものではない。ただ、ここまで唐突に、現代社会の若者が目を背ける溝まで落とされるとは思わなかった。
この後は、彼らお得意の神出鬼没ともいえるハイコンテクストな歌詞が続く。シンデレラ体形の流行などに言及しつつ、アデロール(ADHD治療薬)やビトリオール(硫酸、あるいはADHD治療薬の副作用に対する治療薬)に触れつつ、それを若者たちがアペロール(イタリアのお酒)のように飲んでいると嘆く。(これはどれも若者の間で流行する異常な習慣を示す)
現代の若者の薬物事情を説いた後、歌詞はこう続いていく。
そもそも1曲目の"The1975"は毎度、そのアルバムの全体的な空気感を示すものだ。今回の場合でもその文化は途切れなかった。ある意味では。それまでは1~3枚目までは「GO DOWN~」でおなじみの1分程度の詩で、3パターンすべてが歌詞は共通しているものの、メロディは全く異なっていて、「今回はどうくる…?」という期待感を楽しませてくれた。そして4枚目では、先述の通り、新たな取り組みとしてグレタ・トゥーンベリのスピーチが採用された。
そして本作では歌だった。今までがテンプレートの音像をデコレートするもの、ないしはスピーチだったのに対し、今回はしっかりと「歌」だった。マティは音に乗せてこのアルバムのイントロダクションを示した。
現代社会を観察したのち、曲はマティの過去やThe1975のこれまでの歴史をかなりシニカルにメタ的に振り返っていく。
こっちが悲しくなるほど、彼らは彼らのやってきたこと全てを破壊していった。これまででもマティの薬物に関する問題は曲のトピックに取り上げられることは非常に多かった。それは彼らの苦難の歩みというコンテクストと曲のテクストの不思議なハーモニーを創り出していた。しかし彼らはこの独自の魅力を「失敗したことを美学にして、自分の過去を漁り出してるんだな」ときっぱりと切り捨てる。内省的な部分をこれでもかと批判する。
さらに続いて、僕ら若者ファンが彼らを救世主として崇めてきたことに対しても、これまた絶望的な回答を付した。
僕らのヒーロー、The1975は自分たちの立場は若者を身代わりにしてるだけだというのだ。そんなことないのに…;; このような暴挙(?)の理由はやはり彼らが本作で自分たちの今の立場を一度破壊しようとしているとしか考えられない。マティの内省的な歌詞や自分たちの政治的な主張を「それで食っていけるのはファンがいる間だけだ。政治的なことが言えるのは若者を盾にしてるだけだ」などと罵る。もはや「自傷行為(Self-harm)」だ。
その後、彼らがアメリカンドリームに踊らされたという告白やQAnon(アメリカの極右が発する陰謀論とその政治運動)の現状に触れながら曲は終わりに向かっていく。またもや「そしてこれは『時代』について―これが、そのありのままの姿なんだ」というリフレインに包まれながら。
そしてアウトロが始まり、曲の冒頭に登場した最も印象的な一節を、諦めやため息にも似た、怯える子供を諭すような優しい口調にも似た、マティの囁きによって表現し、曲が終わっていく。
アウトロの余韻をたっぷり残し(ギタリストのアダム・ハンの弾く、クイーン風のカッティングフレーズや言葉では表しきれない感情を示した音像づくりはやはり格別だ)、曲は2曲目の"Happiness"へと歩を進める。
そして先行配信で耳がバグるほど聴いた、"Happiness"のおなじみのギターフレーズが聴こえてくる。この1曲目から2曲目への変遷は一見(一聴)すると見事だ。"Happiness"の印象的なイントロの魅力を最大限引き出すことのできるアウトロだった。ただ、"Happiness"の曲の内容を一度理解している状態であると、その自然さだけを称えるわけにはいかない。
一度この点については、一旦保留しよう。
3曲目は80年代風のアップビートが印象的な"Looking For Somebody (To Love)"だ。走り出したくなるような高速テンポと『恋する誰かを探してる』という愛らしいタイトルだけを手がかりに、非ネイティブの僕らはこれがどれだけ素敵な内容の青春の曲なのだろう、と夢想する。
ただ、実体は誰にも振り向いてもらえない「最高なジェントルマン」が銃を片手に人を殺しまくるという、とんでもない内容の「愛の曲」だ。
なんだか3曲目という位置や、一見明るい曲が実はとんでもない歌詞だったという点からしても、ビートルズの『アビーロード』の3曲目の"Maxwell's Silver Hammer"のようでもある。
気分がアゲアゲになった直後、あの問題作"Part Of The Band"が始まる。今振り返ってみると、1曲目の"The1975"とテーマはかなりの部分で一致していることに気が付いただろうか?
内省的な視点を持ち合わせつつ、現代社会を様々な観点から批評する。過去の自分の行いを清算しつつ、これまたハイコンテクストな言説で今を切り取る。ところで、どうして今回のアルバムにおいて、彼らはここまで自分たちの「像」を壊したがるのか?
この曲も、1曲目の"The1975"と同様に、非常に印象的ないくつかの小節で幕を閉じる。そこではマティの空想世界を難解な歌詞で描いた曲の大部分をバッサリと切り捨ててしまう。
5.The1975の「脱構築」と、真実の愛について
曲はその後も進んでいくし、曲の考察はまだ半分も終わっていないが、僕の新たなThe1975に対する衝撃と理解は、2週目に聴いたこの時点でほとんど形成されてしまったので、いったん詳しい考察はやめにしようと思う(ふと文字数を見ると、この時点で9000字を超えていた。どうりで眠い!)。
では、そろそろ本作の(僕が思う)正体について切り込んでいきたい。その手がかりとして、本作に対するマティ自身の意見をここで引用する。
僕の意見において、特に重要視しているのはこの太字にした部分だ。皮肉とポストモダニズム、それに加えて、嘘や欺瞞、どんどんと希薄化していくリアルな人との繋がりが溢れる、この現代社会の中で、人は真実の愛を見つけられるのか?という点だ。
それを表現するためには、あまりに固く構築されすぎた彼らのスタンスを一度、根本から破壊する必要があったのではないか。
つまりどういうことかというと、これまでの彼らは継続して愛について歌ってきた。しかしそれは自己愛や自分自身への屈折した愛情、もしくはセックスやドラッグに依存した愛を描いてきた。ストレートな人に対して向けられる愛というものは、意外なことにそれほどなかった。そして彼らは「個人と個人の屈折した繋がり」というフェーズから、「個人と世界の繋がり」というフェーズに移行する。この後半部分が僕が出会った時期で、僕の中のThe1975像がこの頃に形成されていた。
しかし、この混沌とした、あまりに多くの絵の具が混ざりあった水のなかで、あまりにシンプルなメッセージである「愛」を語る、というのはこの状態の彼らにとって、それほど賢いことではなかったのだろう。そのために彼らは1曲目で、過去の自分たちを「脱構築」し、まっさらな状態になった。
まっさらな状態なった彼らは、2曲目の、本作でも最もストレートな曲の一つである"Happiness"において、若さと盲目さをたっぷりと含んだきらきらした恋愛を歌い上げるのだ。
それに加えて、まっさらな状態になった彼らは、最初の頃と同じようにモノクロでほとんどのミュージックビデオを作り、アーティスト写真のほとんどを撮った。
そして、これも上記のインタビューで語られていたが、「単なるバンド」という存在に回帰するために"Part Of The Band"というタイトルの曲をまず最初の先行曲として、ここからこの素晴らしい旅を始めたのである。
ところで"Part Of The Band"が4曲目にある所以についてだが、僕の見解では「脱構築」と「導入」の前半部分と、バラード調の曲を多く含む愛のさまざまな側面を歌う後半部分を明確に分けたかったからではないだろうか。それに"Looking For Somebody (To Love)"と"Oh Caroline"という明るめな曲で挟んだ方が対比構造が成り立つ。
「単なるバンド」となった彼らは、本作においてほとんど政治的な立場を示していない。彼らは世界に目を向けてそれに立ち向かうのではなく、世界に背を向けて僕らを方を向くことを選んだのだ。僕らを見た彼らはまずこう憂う。「君が17歳として今生きているなら、本当に気の毒に思うよ」と。
しかし、彼らは若者のこれからの暗い未来を憂うだけにすぎず、我々がこの先目指すべき、昼間の太陽のような、または夜の月のような、道しるべを教えてくれた。それが「愛」だ。
愛にはいろいろな側面があり、それが本作が描く様々な事物だろう。"Happiness"では「愛が僕を盲目にする」し「もう君以外誰も愛さない」と思わせることができると示していたし、"Oh Caroline"では「君がいないから死にたくなってきたよ」という依存性も示した。
その一方で"Looking For Somebody (To Love)"では、歪んだ愛が引き起こす最悪の事態についても触れる。それだけでなく、"Wintering"では自分の家族の変わった一面をおちょくりながらも、クリスマス直前の「23日には帰るからね」と歌う。
そして最後の曲である"When We Are Together"では、「君と一緒にいるときだけ、僕は元気でいられるんだ」と情けなくも、マッチョイズムとはかけ離れた弱々しくも愛らしい人間らしさを示してこのアルバムは終わる。
政治的な問題が溢れかえり、何が正解かもわからないこの世界で、彼らは僕が求めていたポリティカルな像とはかけ離れた「愛」を示した。当初は懸念していたことばかりだったが、最初の既成概念の「脱構築」と「愛」の示し。そのどれもが見事だった。
僕は彼らに政治的な立場を保持することを求めていたが、この乱れた世界の中で、人類がこの長い歴史のなかで継続してきたわずかな行為の一つ、「誰かを愛すること」を歌うというのは、ある意味では何よりも「ポリティカル」なのかもしれない。
ポリティカルである、というのは世界をほとんどすべての人にとって素晴らしい世界であるように目指していくことだと、僕は思う。The1975は僕ら若者の世界のためにその権利を行使してくれていた。そしてその平和で安泰な世界の先にあるのが、真実の愛だ。そのようなあまりに壮大で不可能と思われがちな理想論に対して、The1975は「誰かを愛すること」でもそれに一歩近づけるかもしれない、と示してくれたのではないだろうか。彼らなりの「もう一つの方法=Alternate Way」がそれだったのだろう。
ここまで長々と僕の"屈折した"The1975への愛情を語ってきたが、僕の考えるこのアルバムのスタンスは少なからず伝わってくれただろうか。本作はThe1975的にも、僕らファン的にも、非常に大きな意味を持つものとなったことは間違いないだろう。僕の中でのこのアルバムの評価という無粋な価値判断ではなくて、僕にとってこのアルバムはすごく、すごく、大切だ。
これからのThe1975に可能な限り、最大限の幸あれ。
これからも僕らのために、少しだけ、こっちを向いていてほしい。