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自分を見つめる手帳 / : 2022.1.31~2.6


どれだけ時間がかかっても、人よりずっと遅くても。「大丈夫だ」と信じて待ってくれること、真実や正しさより、気持ちを真っ先に優しく掬いあげてくれること。

嬉しさが込み上げて、涙が勝手に溢れてしまう日々。それは間違いなく、私が欲しくて欲しくてたまらなかったものだ。


・消費的な人間関係と距離を置いてみる

人生で、自分から距離を置いた人達がいる。思い出すとやっぱり少し苦い気持ちになるけれど、以来私の中でずっと「人間関係における線を私はどこで引くべきか」を考え続けてきた。

好き嫌いがハッキリしている人ならあまり悩まないのかもしれない。でも、なんとなく誰とでも付き合えてしまうせいでこれに悩んでる人はきっと私だけじゃない。そういう人間はこれを明確にすべきなんだ、といい学びを貰えたことにはすごく感謝してる。
 


人間関係において、私には我慢ならないものが2つある。

1つ、第三者を厄介事に巻き込んだり、逆に渦中の当人じゃないのに外部から知ったふうに口を挟む人( 芸能人叩きとかまさにこれ )。
2つ、相手の理を考えられない人。それを踏まえて色んな提案や言葉の投げかけが出来ない人。


どちらも相手を"消費"しているんだ。私の何かが奪われたような気分になる。テイカー( taker:奪う人 )と呼ばれる人だ。

ただ、相手の状況は考えなくちゃいけない。相手には相手の人生があって、いつだって関わっている時点でそれにお邪魔しているんだ。相手には自分以外何十億人って他の選択肢がある中で、一度きりしかない人生の欠片を私に託してくれている。それに甘えちゃいけない。愚痴るときはオチをつけるとか、今夜だけ一緒にいて欲しい、と時間を決めるとか。今度お礼にお茶でも奢るね、とか。“貰ったものに何かを必ずお返ししなさい”、その教え自体は多分あんまり間違ってはいなかったと、大人になって改めて思う。その場で無理やり返す必要はないけど、ちゃんと覚えていて、いつか返してあげる。というか、返したい。何かあったら新幹線に乗ってでも駆けつけようとか。味方も共感もしないけれど、ただひたすら話を平等に聞いてあげる存在ではいようとか。

それを計算だと片付けてもいいけれど、私は優しさと呼びたいなって思う。目に見えないものを奪う人間ではいたくない、少なくとも。あいつに出会ってよかった、と言われたい。それは圧倒的エゴでもあり、そして絶対的な愛だ。残り続けたい一方で、残してあげたい。忘れられたくないというより、ふとした時の勇気になりたい。
https://note.com/sexrecipe/n/n800cac0ada82

 
その人と為されるのが、"対話"なのか"会話"なのか。言い換えれば相手との"生産"なのか相手の人生の"消費"なのか。


会話的、自分の言いたいことを言うだけの人といるのは、独り言を垂れ流すだけの人のタイムラインを見てる気分になる。その時間、私の人生が消費されるような感覚。
逆に対話のできる人とは、目には見えなくても何かが生まれる。それは新しい気づきだったり、一つ何かへの理解が深まること、純粋に温かい気持ちになったり元気を貰えること。お互いにね。



何かをくれという話じゃないんだ。それを求めて付き合うわけじゃない、それこそテイカーになってしまう。ただ私は「生きてる」時間を一緒に過ごしたい。一方的に話したいことをそれぞれが話して解散するような時間はさ、「私と君でなくてもよくない?」って思ってしまうじゃん。

一緒に居て何かが生まれる人は、自分を大切にしてる人だと感じる。自己愛とか自己肯定感とは別のベクトルで、自分のことも相手のことも丁寧に扱ってるというニュアンス。人としての尊厳をちゃんと抱き締めてくれている人。丁寧に、色んなものを掘り下げて、一つひとつを味わっている人。表情が豊かでなくても、 話し下手だとしても、それはじんわりとこちらに伝わってくるんだよね。


そういう人と多くの時間を過ごしたいし、逆に言えば「とりあえず誰かと過ごしてこの暇や寂しさを埋めたい」ってマインドの時、私自身がテイカーになってる自覚を持ちたい。( もちろんそれでも人間生きてればさ、とりあえず誰かと寝たいとか過ごしたいってことはあるんだけど。でもできるなら、孤独を愛し続けられる強さが欲しいなって思った。)

 
 
 

・真の意味で自分らしさを愛するために


今まで、人権問題って何処か遠くの国の話だと思ってた。もしくは昔の話。士農工商もなくなって、この国ではあんまり考える必要のなくなった話。あ、難しい話じゃないから、どうか読むことをやめないで。私もその手の話はアレルギーだったんだけど!

例えば電車に貼られた脱毛の広告。大抵「私らしくいよう」「自信の持てる私へ」みたいな文言が当たり前に並んでる。ムダ毛のないつるつるの肌の私の理想を描く。たしかに自信を今より持てるかもしれない。

例えば女性の学制服のズボン導入。学生時代、普通にスカート寒かったしな。選択肢が増えるのはいいことだよね。自分のジェンダーで悩んでる人もこれで困らないし。

例えば望まない妊娠による中絶。相手の署名が必要だし、手術費用が10万円くらいかかる。日帰り手術。なかなか大変だけど、中絶ともなるとそういうものだよね。


────色んなことの前提の認識が、実はそもそもがおかしいんだと日頃生活していて気付かない。VOGUEの言葉を借りるならアンコンシャスバイアス( 無意識の偏った見方 )というやつ。"当たり前"のことを、私自身が認識してない。無意識の偏見に自分を押し込めて、躍起になってお金も時間も日々大量投入して疲れ果てる。……多分、無意識のうちにそれで自分を嫌いになっている人は多い。太っているから自分は美しくない、毛があるからダメ、人として服装を押し付けられている前提を受け入れてしまっていること、レイプされたのに中絶出来なかったり、心身のリスクがずっと少ない薬があるのにその選択肢がこの国にはなかったりすること。




社会問題、として捉えてしまうと途端に途方もない規模になって、諦めてしまいそうになるけど。これは人権問題であると同時に、「私がありのままの私を愛するにはどうしたらいいか」っていう、超絶個人的な話。何故今の自分を好きになれないのか。何故食べたいケーキを我慢しているのか。何故今月お金がカツカツなのかとか、何故朝早く起きなくちゃならないのか。自分が一日に無意識に自分に鞭打ってる数は、100をくだらないかもしれない。自分自身に焦りやプレッシャーを感じた時、私たちは一度立ち止まる必要がある。とてつもなく時間のかかる法整備より、ずっとずっと早く自分も社会も変わってゆく気がする。

毎日、自分の中のそれらに、私たちはポジティブにたたかわなくちゃいけない。愛せて当たり前のものを愛せていないことが、あまりにも多い。



  
  

・プライドのかまたり!!!


話は打って変わってポケモンアルセウスを絶賛プレイしてるんだけど、アクションゲームが壊滅的に苦手な私は、まぁびっくりするほどボス戦が勝てなさ過ぎて。ここで何クソ! ってなれたらいいのに、ゲームを壁にブン投げたくなってしまって、そんな自分が悔しくて情けなくて泣いた。ねぇこれ、たかだかゲームの話ね?笑


自分で自分を奮い立たせるとか、自分の立てた目標に頑張ってその努力とか小さな進歩を自分で認めて褒めてモチベートするなんて当たり前のことなのに、その当たり前が出来ない! "お願い、私の代わりに私のことを励まして労って!"って半泣きで彼女にお願いした程。ああ私、ほんとうにプライドのかたまりなんだな、ってすごく悲しかった。


大人になるほど、「出来ない」に拒否反応を示してしまう人は私だけじゃないと思う。社会に出たらあまりにたくさんの世界があって、出来ないことや人より( その分野の知識において )劣っているなんて当たり前なのにね。こうしてプライドだけ高くて何も出来ない大人が出来ていくのだし、私もその仲間に入りかけてしまっている、その理由は自分で理解している。一から自分を育てなくちゃならない。


自分の可能性を信じてあげられるようになりたいんだ、それがたかだかゲームなのだとしても。負けず嫌いまでいかずとも、その日の頑張りをしっかり見てあげられる大人でいたい。どれだけ小さな進歩でも、どれだけくだらないことでも、どれだけその時人より出来なくても。



って思いで、週に一度手帳を振り返る。高校時代の恩師がくれた言葉が蘇る。「一日を振り返りなさい。一週間を振り返りなさい。一ヶ月を、そして一年を振り返りなさい」。振り返る時間が惜しくてがむしゃらだった20代には出来なかったこと。人生と自分を大事に育てる30代を過ごしたい。








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