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(たとえ家族が崩壊しても)子どもをやる気にさせるたった1つの大切なこと       Chapter 3 馬を水辺に連れていくことができても、水を飲ませることはできない(子供に○○しなさいと言っても無駄)

 私が今でも振り返って感心するのは、元夫が彼の子どもたちに、もちろん父長(チームリーダー)として号令をかけることはあっても、ただの一度も何かを上から目線で無責任な命令をしたり、怒鳴ったり、叱ったりしているのを見たことがない。

 これには幾つかの状況的要因も作用している。

 1つは、子どもたちの生活基盤は母親の家にあり、母親との合意の下、元夫は子どもたちに「会わせてもらっていた」。言い方は悪いが、子どもたちは人質に取られているような状態でもあった。父親と過ごした後、子どもたちが母親のもとへ帰った時に、父親と何をしたか聞かれたりした時、少しでも不愉快や虐待を連想させることは避けなければならない、ということがあったと思う。

 さらに、階級社会のイギリスでは、親子のコミュニケーションの仕方で、どのクラスに属するかがすぐに分かってしまう、ということもある。

 中・上流クラスの家族の場合、たとえば電車などでは、親子ともども静かに本を読んでいたり、話をする時も周りに迷惑をかけないよう、ひそひそ声だったりする。

 これに対し、差別や偏見だと批判されるのを覚悟で敢えて言うとすれば、公共の場で親が大声で子どもに怒鳴ったり、怒ったり、子どもがビービー泣き叫んでいるという図式は、決まってワーキングクラス(そのなかでも下層)であることが多く、またそう思われやすい。

 子どもをトップの私立学校に入れるというビジョンがあると、常日頃からその階級に相応しい行動をとらざるをえなくなる。

 だが、ここで何よりも重要なのは、元夫は自分自身の父親との関係や直感から、子どもに何かをさせようと思ってただ命じても無駄だということを知っていたということである。

 イギリスには「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」という諺がある。

 私自身、最後の講義を大学院で拝聴させていただいた心理学者の故河合隼雄先生は、関係性が築かれていないのに、子どもに「勉強しなさい」「○○しなさい」と言うからうまくいかないのである、と仰っていた。

 デール・カーネギーも1931年のベストセラー著書『人を動かす』で、本人が本気でそうしたいと思わなければ命令しても無理であり、そうしたいと思わせるしかないと説いている。

 多くの親がただ子どもに権威を振りかざして命令するのは怠惰だからだと思う。

 振り返れば、元夫は長い年月をかけて日常の活動やクオリティタイムを通して信頼関係と絆を築き上げてきた。

 人に何かをしてもらうのは容易ではない。自分の子どもとはいえ同じである。

 子どもと犬は、社会性や情緒的な発達の仕方において、共通点があると思う。

 私の愛犬の振る舞いを見た人はいつも「この犬はお行儀がいいですね。どこで訓練したのですか」と聞いた。私はこう答えた。

「訓練したことはありません。互いの信頼関係(mutual trust)の賜物です」

 元夫は子どもが育っていく過程で、この信頼関係、絆を築き上げることを最優先してきた。

 さらに、一緒に体を使ったアクティビティを沢山行い、脳を刺激・活性化し、何かを達成する喜びを自然に吹き込んだ。

 イギリスのパブリックスクール(私立エリート校)が英国社会の究極の不平等の象徴であることは既に述べた。

 最たる不平等があるとしたら、こうした私立学校では公立学校と違い、様々なスポーツ競技から演劇・音楽に至るまで、幅広くクオリティの高い課外活動が提供されていることではないかと思う。

 イギリスは嘗て11歳で人生が決まる社会だったことは述べた。

 しかし、エリートコースに入ることができれば、じっくりと時間をかけて自分の感心や向き不向きを見極め、選択することができる。

 私のステップチルドレンは、医者、外交官、エンジニア(さらにオリンピック選手)になっていったが、彼らは一度だって親から「お前は医者に、お前は外交官に、お前はオリンピックに出なさい」などと言われたことはない。

 元夫が子どもたちに「勉強しなさい」と言うのを見たこともない。

 彼らは親からの絶対的信頼感をバックボーンに、自らキャリアを選び、邁進していった。

 ステップチルドレンは3人とも同じ学校に行っただけでなく、ウェストミンスタースクールのクイーンズスカラーという特待生だった。

 私のステップチルドレンが入学した年は、特待生として選ばれたのは7名だった。パブリックスクールの学費は寄宿学校の費用も含めて年間700万円近くかかる。特待生はその半額を免除される。

 イギリスのパブリックスクールは、祖父や親、兄がその学校の卒業生であることが、入学に有利に働く。

 それは不公平じゃないかと思われるかもしれないが、要は優秀な家族がいるなら、その子も家庭で同様の良質の教育を受けてきたとみなされるからだろう。

 兄に続いて次男の合格を待つ間、元夫がこう言ったのを今でもよく覚えている。

「不合格だったら慰めてやる必要があるけど、合格だったら何もしなくてもよい」

 私は感心した。これと真逆のこと(つまり不合格だと子どもをけなし、合格したら豪奢にお祝いする)をする親が、陽の東西を問わず、世の中にはなんと多いことか。

 子どもたちは親から認めてもらうため、褒美をもらうために勉強すべきではない。子どもに心からそうしたいと思わせることが、本人のやる気を上げ、その先へ向かわせる唯一の方法なのだから。

 

 

 

 


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