(長編小説)止まった時計を動かして ~変わりたい僕の365日~【第7章:新たな挑戦】
秋の澄んだ空気に、どこか遠くで響く運動会の練習の声が混じる。祐介の住むマンションの近くにある小学校では、子どもたちがリレーやダンスの練習に精を出していた。その光景を横目に、祐介はスマートフォンをいじりながらぼんやりとベランダに立っていた。
「全力で走る姿、いいよな……」
いつから自分はこうやって無気力に日々を送るようになったのだろうか。かつては全力で何かに打ち込むことが当たり前だった。学生時代、空手に燃えていた頃は目標に向かう熱意が自分を突き動かしていた。だが今は、あの時のような熱を感じる瞬間が一向に訪れない。
会社に着くと、山本知佳が弾む声で祐介に話しかけてきた。「祐介さん、聞きました?うちの会社、来月から新しいプロジェクト始めるみたいですよ!」
祐介は軽く頷きながら、「聞いたよ。だけど、俺たちの部署には関係ないんじゃないか?」と素っ気なく答えた。
「そんなことないと思います!上野部長、昨日ミーティングで『みんなの力が必要だ』って言ってましたし」と、知佳は期待に満ちた笑顔で話す。
その日の午後、上野篤志から突然呼び出された祐介は、予想外の提案を受けることになる。
「祐介、君にこの新しいプロジェクトの責任者を任せたい」
「……俺に、ですか?」驚きと戸惑いで、祐介の声は思わず上ずった。
「そうだ。このプロジェクトはうちにとって重要な転換点になる。今の君には少し荷が重いかもしれないが、俺は君に賭けてみたいんだ」
祐介は唖然としたまま、その場で言葉を失った。プロジェクトの内容は、新規クライアントのブランディング戦略の立案と実行。これまで経験した仕事とはスケールが違いすぎる。だが、上野の真剣な目を見ていると、軽々しく断ることもできなかった。
「……わかりました。やってみます」
そう答えながらも、祐介の心には不安が渦巻いていた。
その夜、いつもの土手道を歩く祐介の独り言が、秋の冷たい風に乗って消えていく。
「俺にできるのか……失敗したら、どうしよう……」
川向こうのマンションの灯りがぼんやりと揺れる中、祐介の足取りはいつにも増して重かった。
プロジェクトの準備が始まった翌日から、祐介の周囲は急に慌ただしくなった。プロジェクトチームには祐介のほかに、経験豊富な伊藤紗枝、企画部の山本知佳、そしてデザイナーの高田悠斗が選ばれていた。初日のミーティングで、上野部長からプロジェクトの概要が説明されると、全員が期待と不安を抱えた表情を浮かべた。
「君たちに求められるのは、これまでの枠を超えたアイデアだ。大きな挑戦だが、信じている」
上野の締めの言葉が部屋に響く。祐介は、上野の視線が自分に向けられた瞬間、強く背中を押された気がした。だがその一方で、周囲の期待が重く肩にのしかかる感覚に苛まれていた。
その日の夜、祐介は家で資料を見返しながらため息をついていた。
「どうすりゃいいんだ……」
空手で全国優勝を勝ち取った時のことを思い出そうとするが、記憶の中の自分は今よりもずっと輝いて見えた。あの時の熱意を取り戻せるのだろうか。
翌朝、出社すると、知佳が満面の笑みで祐介を迎えた。
「祐介さん、これ見てください!」
彼女が手にしていたのは、クライアントの現状を分析した詳細なレポートだった。知佳の努力と熱意がにじみ出たその内容に、祐介は素直に感心した。
「ありがとう、これ、すごく助かるよ」
彼の言葉に知佳は少し頬を赤らめ、「私もこのプロジェクト、成功させたいんです」と小さな声で答えた。
その後、チーム内での役割分担が決まった。伊藤はプレゼン資料の構成と内容の精査、知佳はリサーチと企画提案、高田はデザイン全般、そして祐介は全体の調整と進行管理を担当することになった。
「責任者の仕事は、一人で何もかもやることじゃない。俺たちをどう動かすか考えてくれればいい」
伊藤の冷静な一言に祐介は少し救われた気がした。
だが、時間は待ってくれない。クライアントへのプレゼン日が刻一刻と迫る中、予想以上に多くの課題が山積みとなり、祐介の心に焦りが募っていった。
「時間が足りない……このままじゃダメだ……」
仕事帰りの土手道で、祐介は何度もつぶやいた。暗闇に浮かぶ自分の影を見つめ、ふと立ち止まる。
「昔の俺なら、どうしてた……?」
思い浮かぶのは、試合前夜にひたむきに稽古に打ち込む自分の姿だ。あの頃の情熱を、今の自分に取り戻すことができるだろうか。
翌日、祐介はチームメンバーを前に意を決して言葉を発した。
「みんな、今のやり方じゃ間に合わない。少しずつ負担を分け合おう。無理だと思ったら正直に言ってくれ。それで、やれるところまで全力でいこう」
その提案に、知佳が一番にうなずいた。「賛成です!やれるだけやってみましょう!」
祐介は知佳の笑顔に励まされ、伊藤や高田の同意も得ると、ようやく肩の力を抜くことができた。
その夜、土手道を歩く祐介は、いつもの独り言を漏らさなかった。ただ静かに、心に灯り始めた小さな希望を抱えて家路に着いた。