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(短編小説)不器用な手と器用な心

夕方、リビングから漂うお味噌汁の香りに、次男の陽太が小走りで駆け込んできた。

「今日、カレーじゃないんだ?」

陽太はテーブルに並ぶおかずを見て、少しだけ残念そうな顔をする。母親の真奈美は笑いながらエプロンで手を拭き、優しく答えた。

「カレーは明日ね。今日は魚を焼いてみたの。あなた、昨日『たまには違うものが食べたい』って言ってたでしょ?」


陽太はしばらく考え込んだ後、「そんなこと言ったかなあ」と首をかしげる。それを見ていた長男の直人が教科書を閉じ、ため息交じりに口を挟んだ。

「言ったよ。俺も聞いてた。」


その時、玄関から「ただいま」と聞こえてきた低い声に、家族全員がそちらを向く。父親の悟だ。

彼は無造作に置いたカバンが転がり、玄関マットを引っ掛けたままこちらに歩いてくる。その姿に真奈美は苦笑し、すぐに動いてマットを直しながら声をかけた。

「お疲れさま。ほら、手洗ってきて。」


悟は何も言わずにうなずき、洗面所へ向かう途中で次男の陽太とぶつかりそうになり、「おっと」と小さく声を漏らす。それを見て陽太が小さく笑った。



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夕食が始まると、静かな時間が流れた。悟は黙々と食べ、真奈美が「これ、どう?」と新しいレシピについて尋ねるたび、口をモゴモゴさせながら頷くばかりだ。

「もう少し塩が効いてた方がいいかな?」

真奈美がそう尋ねると、悟は少し慌てた様子で「いや、ちょうどいい」と答えた。その言葉に真奈美は「本当?」と目を細めるが、特に深くは追及しない。


食後、直人と陽太が片付けを手伝う中、悟はソファに腰を下ろした。少し居心地悪そうに背もたれに体を預けながら、新聞を開く。次男の陽太がちらりとその様子を見て小声で呟いた。

「お父さん、新聞なんて読んでるふりだけだよね。」

それに直人が頷く。

「たぶん、中身全然頭に入ってないよ。」


聞こえていないと思っていたその言葉に、悟が耳をピクリと動かした。

「ちゃんと読んでる。」

短く答えた彼に、二人の息子は顔を見合わせ、笑いをこらえる。



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ある日曜の午後、家族がリビングに集まる中、悟が突然「よし」と言い立ち上がった。

「何かするの?」と真奈美が尋ねると、彼は大きな段ボール箱を持って戻ってきた。中から釘や木材が出てくるのを見て、直人と陽太が目を輝かせる。

「お父さん、それ何作るの?」

「……棚。」


簡潔な答えに二人の息子は興奮したが、真奈美は少し不安げに眉を寄せた。悟は日曜大工が好きだが、器用とは言い難い。過去にも、ぐらぐらする椅子や、引き出しが閉まらない机を作ったことがある。それでも、家族は文句を言わずに受け入れてきた。


「手伝うよ。」

陽太が意気込んで言うと、直人も「俺も」と手を挙げた。悟は少しだけ嬉しそうに頷き、「じゃあ、これを持ってて」と二人に木材を渡した。



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しかし、作業が始まって30分後、真奈美がリビングに顔を出すと、現場は混乱の真っ只中だった。木材があちこちに散乱し、釘が床に転がり、陽太は手にしたドライバーをじっと見つめている。直人はため息をつきながら図面を見て首をかしげた。


「大丈夫?」

真奈美が尋ねると、悟は汗を拭いながら「問題ない」と答える。だが、その言葉とは裏腹に、棚はまだ形すらできていない。


真奈美は笑いながらエプロンを外し、工具箱を手に取る。

「少し見せて。」

彼女が手際よく木材を組み立て始めると、悟は少しむっとした表情を浮かべたが、結局何も言えずに見守るしかなかった。陽太と直人も母親の作業を興味津々に見つめている。


「こうやって、ここを止めるのよ。」

真奈美が説明しながら作業を進めると、陽太が「なるほど!」と目を輝かせた。それを見て、悟が小さく呟いた。

「俺だって、それくらいはわかってた。」


その声に真奈美がくすりと笑う。

「じゃあ、次はあなたがやってみる?」

そう言われた悟は少し戸惑ったが、息子たちの視線を感じて工具を手に取った。しかし、やはりぎこちない動きで、釘が曲がりかけたところで真奈美がそっと手を添えた。

「いいのよ、一緒にやりましょ。」


悟は黙ったまま作業を続けたが、その背中から少しだけ安心した気配が漂っていた。



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夕方、完成した棚を見て、陽太が声を上げた。

「お母さん、すごい!本当にちゃんと立ってる!」

直人も感心したように頷くが、悟は何も言わず、そっと棚の一部を触った。その手が少しだけ誇らしげに見えるのは、家族全員が気づいていた。


真奈美は笑顔で「みんなで作った棚ね」と言った。悟は照れたように顔を背けながら、ほんの少しだけ口角を上げた。その小さな笑みを見て、家族は心の中で笑みを浮かべた。


彼の不器用さもおっちょこちょいなところも、すべて含めて、この家族の大切な一部だった。

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