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(短編小説)再スタートの朝

 「もう少し動いたらどう?」妻の澄江が新聞を畳みながら言った。

「動いてるさ。散歩くらいはな。」田村耕造はテレビのリモコンを手にしたまま視線を外した。


役員としての華々しいキャリアを背負い退職したが、退職後の日々は空っぽだった。最初は自由を謳歌したが、数か月が過ぎると心にぽっかりと穴が空いたようになった。「まだ元気なうちに働いたら?」という澄江の提案は耳に痛かったが、心のどこかで響いた。(新しいことを始めるなんて、この歳で大丈夫だろうか。だが、何もせずこのまま終わるのは嫌だ。)


そして、田村は小さなカフェの求人に応募した。仕事内容はキッチンの補助と接客業務。コーヒーの淹れ方も知らない。レジも未経験。それでも店主の「人生経験を活かしてください」という一言で採用が決まった。


初日、田村は緊張で手が震えた。コーヒーカップを洗うだけで汗をかき、注文を聞き取るにも耳が追いつかない。若いスタッフから「田村さん、もう少し早く動いてもらえると助かります」と言われ、肩を落とす日々だった。(俺は何をしているんだ。役員時代の威厳も何もかも捨てたのに、うまくやれないのか?)


それでも田村はがむしゃらに努力した。夜遅くまで淹れ方の練習をし、メニューを覚えるためノートに書き写した。ある日、常連客がふと田村に言った。「あなたの笑顔、素敵ですね。ほっとします。」その一言が彼の胸を熱くした。(こんな些細なことで、誰かの役に立てるんだ。若い頃のあの情熱を、また取り戻せるかもしれない。)


半年後、田村はカフェの誰よりも顧客の名前を覚え、厨房の動線を工夫し、若いスタッフから頼られる存在になった。澄江にその日々を語ると、「やっぱり、あなたには働いている方が似合っているわね」と微笑まれた。


その夜、田村は久しぶりに深く眠った。目覚めた時、心にはかつての充実感が戻っていた。

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