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(長編小説)止まった時計を動かして ~変わりたい僕の365日~【第2章:変化の兆し】

春の日差しが窓から差し込む土曜の朝、近所の小学校から卒業式の合唱が聞こえてきた。子どもたちの声は透き通り、晴れやかな雰囲気が漂っている。祐介はその歌声に耳を傾けながら、コーヒーを片手にぼんやりと過去を思い出していた。  


あの空手の大会で優勝した瞬間、周囲の歓声と共に味わった達成感。メダルの重さに込められた努力の結晶。その一方で、大学卒業後はその輝きをどこかに置き忘れ、日々の仕事に追われるだけの生活を送っている自分がいた。  


「このままでいいのか……。」  

祐介はつぶやきながら、メダルを飾った棚に目をやった。だが答えは出ない。  


午後になると、祐介は街に出ることにした。何かを変えるには外に出て動いてみるしかない――そんな思いが、わずかに彼を突き動かしたのだ。  

繁華街の駅前は、春の陽気に誘われて多くの人でにぎわっていた。新しい服やカバンを買い求める人たちの姿を眺めながら、祐介はふと思いつきで服屋に入った。  


「こんにちは。こんなところで会うなんて、偶然ですね!今日はどんな感じのものをお探しですか?」  

明るい声で迎えてくれたのは山本知佳だった。私服の彼女は、職場で見るよりも少しカジュアルで、屈託のない笑顔が彼女の人柄そのままを表していた。  

「え? ああ、何となく来ただけだから……。」  

「えー、それじゃあもったいないですよ! せっかく来たんですから、春っぽいジャケットとかどうですか?」  

祐介が気まずそうにしていると、知佳は笑顔のままいくつかの服を手に取って勧めてきた。彼女の明るいペースに巻き込まれながら試着を繰り返すうちに、祐介の気持ちは少しずつ軽くなっていった。  

「あ、これいいじゃないですか! 祐介さん、めっちゃ似合ってますよ。」  

「そ、そうかな……。」  

全身鏡の前で新しいジャケットに身を包む自分を見ながら、祐介は思わず頬を緩めた。その表情を見て、知佳はさらに嬉しそうにうなずいた。  

「やっぱり外に出ると、気持ちがちょっと変わりますよね。」  

知佳のその言葉に祐介はふと立ち止まった。  


――変わる。  


その小さなきっかけが、立ち止まった時計の針を動かし始めるのかもしれない。そんな予感が心の中に湧き上がるのを感じながら、祐介は「ありがとう」と笑顔で応えた。  


続く午後、祐介は新しいジャケットを着て河川敷を歩いた。春の風が少し暖かく、頬に心地よい。遠くには新入社員らしい若者たちが写真を撮り合っている姿が見えた。  

「俺も、変わらなきゃな。」  

静かな河原でつぶやいたその声は、どこか前向きな響きを帯びていた。  

新しいジャケットを手に入れた祐介は、少しだけ背筋が伸びた気がしていた。明日からの仕事にすぐ効果があるわけではない。でも、何かが少しずつ動き出したような気がしていた。  


その夜、彼はいつもの土手道を歩いて帰った。川沿いの静けさが、日中の騒がしさを洗い流してくれるようだった。川向かいのマンションの明かりが足元をうっすら照らす中、祐介はいつもの独り言を始めた。  

「知佳ってすごいよな……。あんな風に自然と人を明るくできるなんて、俺には無理だ。」  

春の風が草を揺らし、川のせせらぎが遠くで聞こえる。祐介の声はその音に吸い込まれるように消えていった。  

「いや、そんなこと言ってる場合じゃないんだよ。俺だって、変わらなきゃ。」  

自分を励ますように言葉を紡ぐ祐介の表情は、どこか決意を帯びていた。  


自宅に戻ると、棚に飾られた空手のメダルが目に留まった。学生時代の自分はもっとエネルギーに満ち溢れていたはずだ。負けることが怖いと思ったことなど一度もなかった。  

だが、今はどうだろう。仕事もうまくいかず、気づけば目の前の課題を先送りにする癖がついている。  

「このままじゃ、だめだよな……。」  

祐介はメダルを手に取り、過去の栄光を思い出した。その頃の自分に戻れるだろうか。それとも、新しい自分を見つけられるのだろうか。  


その夜、彼は眠りにつく前に新しいジャケットをハンガーに掛け、軽く手で叩いた。  

「明日から少しずつでもいい、頑張ってみよう。」  

そう呟いて、祐介は静かに目を閉じた。  


次の日、会社ではまた忙しい一日が始まった。会議の準備やクライアントへの資料作成に追われる中、祐介は少しだけ前向きになった自分を感じていた。  


昼休み、川村美咲が声を掛けてきた。  

「祐介さん、最近新しいジャケット買いました?」  

「え? なんでわかったんですか?」  

「似合ってますよ。いつもよりシャキッとして見えますから。」  

美咲の落ち着いた笑顔に、祐介は少しだけ胸を高鳴らせた。  

だが、その瞬間にふと頭をよぎるのは、彼女が既婚者である事実だった。ほんの少しの温かさを感じながらも、その先に踏み出せない自分がいた。  


午後の会議が終わった後、同僚の伊藤紗枝が祐介に話しかけてきた。  

「立林さん、何かいいことありました? 今日、雰囲気違いますね。」  

「ああ、ちょっと服を新調してみたんだ。」  

「そうなんですね! でも、それだけじゃない気がしますよ。前より前向きな感じがするっていうか。」  

祐介は少し照れながらも笑みを返した。  

周囲の小さな変化を感じながら、祐介の中で何かが少しずつ変わり始めていた。それはまだ小さな一歩だったが、確実に彼の人生に影響を与えようとしていた。  


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