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「情報に触れる」ということは何気にできるものじゃない
昨日電車の中で傘を3本持った人がいて、思わず「ゾロだ」と思いました。こんにちは、稲本です。福岡でコミュニケーションや情報伝達に関わる仕事をしてます。
今回は情報に触れるということをテーマに書こうと思います。
ふと先日、移動をしているときにいつも通り音声メディアを聞きながら過ごしていたのですが、気がついてしまったのです。
結局「ながら」ではあるのですが、この「ながら」への意識が高まるにつれて「ながら」がメインになってしまう
ということに。
どういうことかというと、今回のケースでいうと、電車で移動していたわけですが、音声メディアに集中してしまっていることで気がついたら目的の駅についていたという状況がありました。つまり、その間で目にした各種情報を逃していたのではないかと思ったわけです。
今回のテーマ「情報に触れる」ですが、僕はこの時間において音声メディアの情報にしか触れていなかったということになります。
✅ もしかしたら、車内の広告に目を向けていれば何か新しい情報に触れることができたのかもしれない。
✅ もしかしたら、車窓から見える景色から何か情報を得ることができていたかもしれない。
✅ もしかしたら、車内にいる人から何か情報を得ていたかもしれない。
ということです。
「音声メディア」は確かに「ながら」には最適ではあるのですが、結局は「ながら」になっていない状況がそこにありました。
「情報に触れる」というのは、どこまでいっても意識の問題があることを改めて感じるのです。
もちろん、人の頭の中で処理できる情報量というものには限界がありますし、その中での取捨選択であることは理解しています。それを改めて感じたわけです。
様々なことに意識をむけるということは必要です。そう意識を向けるという意識が必要なのです。
これは、なんとなく暮らしているみたいな表現につながるのかもしれませんが、どうやらその瞬間僕はあたかも様々な情報に触れるようにしている風に見せて実はなんとなく暮らしていたのかもしれません。
「情報に触れる」というのはどこまでいっても本人の意識次第であるなぁと感じたわけです。感受性というものなのかもしれませんが、「ながら」ということにかこつけて感受性が瞬間的に損なわれていたということですね。
冒頭の「ゾロみたいな人がいた」というような観察眼みたいなものを意識的に持っておきたいなと思った週末の電車の中の話でした。
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