20.好きな自分であれるところにいたい
今日は沢山手を動かした。スマホの電源を切り、集中して進捗を生んだ。時間内で、想定以上の成果を上げた。ゴールに辿り着き、没頭から醒めてふと顔を上げると、なんだか爽やかな気分だ。ああこれが達成感と言うのだろう、とまたもや思う。私にとって達成感とは、苦労もしんどさもあったけれど何か大きなことをやり遂げた、ではなく、「集中し、没頭し、その没頭から醒めた時」なのかなあ……とつらつら考えながら、今朝ある見たツイートに思いが至った。
自分が有能かどうか、自分がコミュニケーションが上手いかどうか、自分のメンタルが安定しているかどうか。この世に多様な人がいるから、「価値」の物差しが発生する。人と人とが存在するから、コミュニケーションが発生する。この世に他者が存在するから、心が良くも悪くも動く。
別にこの世は無人島ではなく、自己像も結局は「他人から見られた姿」を内在化させた部分もきっと大きい。ならば、自分の好きな自分でいられるかどうか。それもきっと場所や相手によるのだ。……それは私の実感としても、そう。自分の好きな相手といても、その相手と価値観や言葉遣いなどの相性が合わなければ、その相手といる自分のことをどんどん嫌いになっていくことは有り得る。
では、自分を好きでいるには。
そこにいる自分を好きな場所にいる。
その人といる自分を好きだと思える相手と一緒にいる。
それをやっている自分を好きなことをして、生きていけるようにする。
じゃあどんな自分が好きかというと、結局は身も蓋もなく、
「この場の纏う空気感や理念で、括られて自分を見られた時に、そんな自分を肯定できる、と思える」(つまりは価値観の問題)場所にいる自分であり、
「自分の能力を認めてくれる、自分が未来に向かって動けると、全体としての力や可能性を信じてくれる、嫌な部分や欠点を指摘しつつも明確な改善策を提示して引っ張り、それはそうと、今の自分の存在を、未来に向けてもの自分の存在を、肯定してくれている、と思える」(つまりは肯定感の問題)人といる自分であり、
「社会的に価値がある、ないしは自分にとって価値がある、前進している、成長している、無駄ではない、有意義なことである」(つまり価値観の問題)ことをしていたと実感している自分である。
あくまでもこれは自分の物差しだ。
誰かにとって貼られて嬉しいレッテルや、貼られても呑み込めるレッテルが、私にはどうしても無理なことはある。
私が一緒にいて無理だと思う人間が、誰かにとっては親しみを感じ、尊敬の対象でさえあることもある。
誰かにとっては価値がある、社会的にもある程度価値が認められるが故に存続し経済を回している何かが、私にとっては生理的に受け付けないことであったりもする。
だから、「あの場にいられなかった私は」「あの人と付き合いきれなかった私は」「あの仕事を全うできなかった私は」なんて過度に責めても、逆に誰かをそう責めても、仕方のない話だ。
ある程度は一般化せず、1つ、1人、と捉えていい。むしろその「代替不可能性」こそ、私は愛しているのではなかったか。
病んでいると過度の一般化、「みんなこうだ」「自分なんて全部ダメだ」と言い出してしまう自分への、まだ元気な時の私の言い分である。