見出し画像

一般病棟に移って

一般病棟に移るなりに周りが慌ただしくなった。
私はひたすらぼんやりしていたのでそう感じていただけなのかもしれない。
相変わらず朝からただただ眠く眠りっぱなしだった。
普通じゃ見えないはずのおばーちゃんが見えていて食堂で会話したりすると家族に不思議がられた。
SCUにいるときからそうだったのだが、毎日起きるなりから頭痛が酷かった
脳出血した時のような頭の中から叩きつけられるような頭痛がしていた。看護師さんに伝えてからというものの朝晩胃薬と一緒にロキソニンを2錠ずつ服用していた。しばらくこの状態は続いた。
ただ鎮痛剤は欲しいと言わなきゃもらえない。病前から薬を飲むことを極力避けてきた私はこの時も痛みを我慢した。朝食に手をつけられないほどの頭痛に看護師さんから声をかけてもらい、ようやく服用してちょっとおさまるといった具合だった。何度かそういうことが続くと看護師さんからは薬はすぐに出してあげるから我慢はやめようと言われて申告するようにした頭痛は夜寝る前や深夜でも容赦なく襲ってきた。その都度ナースコールをした。開頭手術ってやっぱりコワイと思った。右こめかみ上の頭蓋骨もミシミシと異音が鳴っている気がした。これも家族には伝えたが相手にはしてもらえなかった。
その異音もいつしかなくなっていた。

一般病棟に移ったその日に夫が握力を鍛えるために使うジェルグリップのようなものを持ってきた。麻痺手はパーにはなっているので、多少ゆるーくいつのまにか動いていたため夫は早い方が良いからこれでトレーニングしなさいとスポーツ用品店で購入して持ってきてくれたようだ。普段無関心な夫が珍しく自発的にしてくれたことだったので、頑張らなければいけないと思いそのジェルグリップボールを空き時間を見つけてはなんとなく弱い力でぷにぷにしていた。そのジェルグリップボールはベッドの中でぷにぷにしているといつの間にか手から落ちてしまっていて、ベッドあちこちに転がっていた。たまに仰向けに寝ると背中の下はさまってあれ?ってなることがよくあった。そのジェルグリップボールを見た看護師さんは偉いね頑張ってね。頑張るときっと動くようになるからねって言ってくれた。頑張ろうと思った。

足は相変わらずだった。ベッドに座ることはできるようになった。SCUに居たころのようにどこかに体を預けることなく座位を保つことはできるようになっていたがベッド脇から投げ出された足はいつもだらんと体にぶら下がっているだけのような感じだった。午前中突然白衣ではない白いユニフォームを着た人たち数人が病室にやってきた。今思うと理学療法士の方数人が下肢の麻痺度の評価に来られたのだと思う。色々指示を出されたがどんなに頑張って力を込めても足を動かすことはできなかった。動かすことができない私にちょっとため息気味でこれじゃダメだなって声が聞こえたときには心にズシっとした絶望感のようなものを感じた。

一般病室に移ってスマホを手にすることはできたが、やはり病前のときのようにスマホを利用することはできなかった。利用したいアプリのアイコンは見つからないしLINEでメッセージを送ろうとしても文章にならなかった。まだAndroidのほうが入力はiPhoneよりやりやすい気がした。このスマホをうまく使えなくなっていたのは注意障害と半盲の影響だったのかもしれない。

「死にかけた」と連絡を受けていた職場の人や友人が一般病棟に移ったということで続々とお見舞いに来てくれた。
私はそれがとても嬉しかった。同時に早く回復させて仕事に戻りたい。またみんなで遊べるようになりたいと強く思った。どこかぼんやりしていた私は回復さえしたら元の生活ができると楽天的だった。私はお見舞いに来てくれた友人に坊主頭を見せていた。ガーゼとガーゼを輪ゴムで接続したガーゼ帽子を被っていたのだがそれを右手で外してはニコニコして見せびらかしていた。ただ一度外したガーゼ帽子は片手ではうまく被ることができずもう一度被るときは夫か母に手伝ってもらわなければいけない。都度二人にはかぶれないくせにとるなって指摘された。それでもやっぱり友達か来たら外したくなって右手で外す。怒られたくないために自分で被れるように動かないながらに被る練習をするということを繰り返していたことが知らないうちに麻痺手のリハビリになっていたようだ。馬鹿は身を助けるということだったのかな思ったり(笑)、しかし坊主頭を見せられた友達はあの時微妙な気持ちだっただろうなって今にして思う。その都度友達は私の頭の形が綺麗って褒めてくれた。思えば気を使わせてたなぁと思うのだがこの時はそんな風に考えることもできなかった。




いいなと思ったら応援しよう!