みう

2017年5月AVM破裂脳出血のため 左片麻痺 左同名半盲 高次脳機能障害(注意障害、左半側空間無視の後遺症が残りました。病前の生活を取り戻すべく取り組んだ奮闘記録

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2017年5月AVM破裂脳出血のため 左片麻痺 左同名半盲 高次脳機能障害(注意障害、左半側空間無視の後遺症が残りました。病前の生活を取り戻すべく取り組んだ奮闘記録

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  • AVM破裂からの復活記録

最近の記事

高次脳機能障害になって字が汚くなった

病後文字が綺麗に書けなくなったことにずっと悩んでいた。 ここからは長い話になる。 1,子供の頃の話 幼き頃字が汚い私を母親が強く叱責した。 丁寧に書こう、他人に見やすく書こうと思う気遣いがないから そんな字が書けるのだと机を叩かれながら叱責された記憶が強く残る 高校生の頃 職業科であることもあり、先生は履歴書に書く字が汚いやつは 就職ができないとハッキリと告げられた 幼き頃に母親に叱責されたトラウマもあり 高校卒業後すぐに就職するつもりでいた私はこのままではいけないと思い

    • 復職した時の話

      発症後3か月入院した。 医師から就労は無理と宣言されて 私は休職することとなった。 本音を言うと休職などせずにすぐにでも復職したかったのだ。 理由は情報を扱う仕事をしているものにとって健常であっても 例え1か月でも休むということは致命的なものなのだ。 私は退院したのなら1日でも早く3か月分の遅れを取り戻したかった。 例え不自由な心身であろうとも現場の空気を吸うのとそこから身を遠ざけるのでは自分にとっての状況が異なるからである。 特に管理者であることに固執したわけではない。 周

      • 田舎で車を諦めるということ

        発症5年半。あの時から私は一度も車の運転をしていない。 何度運転したいと思ったことだろうか 半盲と空間障害により左側の世界がなくなってしまった私は 回復期病院を退院するときはあと1年くらいしたら視野が戻って運転をしてやる!という気持ちだったが私の視野が元に戻ることも広がることもなかった。 駅やバス停までの距離は片道1キロが当たり前 電車やバスも多くて15分~30分に1本 1時間に1本なんてことも当たり前 最寄りのスーパーも片道1キロ以上 かかりつけ病院までの距離は片道2キロ

        • 妥協点を見つける

          片麻痺、高次脳機能障害者となって 健常者のままであれば絶対見ないような世界を見た。 それを見る必要があったのかどうかは今はまだわからないことだらけだが その中で思うことがある。 それについて勝手に考察してみた。 脳卒中により受傷する。後遺症による障害を負う。少しでも日常を取り戻すべくリハビリに励むことになる。これが脳卒中患者の通常の流れだろう ただ、当事者、私もそうであったが、医師や療法士の言う通りにリハビリに励むことにより元に戻ることができると勘違いしてしまう。 私の場合

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        • AVM破裂からの復活記録
          17本

        記事

          回復期、便秘に悩む

          回復期病院に転院してまず一番の難関は 便秘だった。 回復期病院に転院して4日ほど 急性期の頃に排便コントロールがしっかりできていなかった私は すでに10日ほど排便できていない状態だった。 ある日お腹の張りに我慢できず 何度もトイレにチャレンジするためにナースコールをするが だからといって出ることはなかった。 このままじゃダメだと思って困り果て 看護師さんに、座薬くださいと言った。 看護師さんに強い口調で 「どのくらい出ていないの?」って叱られた 1「10日くらいでていないか

          回復期、便秘に悩む

          ケアマネ紹介される

          リハビリ病院に入院した当日 別室に移動して ケアマネージャーと会った 家族も一緒だった 病院勤務のケアマネージャーだった。 ケアマネージャーから自己紹介された。 「みうさん。この度は大変でしたね。みうさんが今後リハビリを終えて自宅に戻られるにあたり、不安なことも多いかと思いますが~」みたいな始まりだった。 ケアマネさんは私と同い年だった。 ほんの少し前までなんの病気もしたことなく多少の無理も平気で過ごせていた私は目の前にいる元気はつらつな同い年のケアマネさんに、元気でいいなと

          ケアマネ紹介される

          回復期病院 初期

          初日の入院手続き後 病室の自分の定位置に荷物を片付けて同じ病室の方に挨拶をした。 転院したばかりではあるが、東京の本社から社長と取締役が私のお見舞いに来てくださった。これには驚いた。単なる一兵卒でしかない私に東京から会いに来てくださった。実は転院前日の急性期病院最後の日には人事部長と総務部長がお見舞いに来てくださった。なんでこのタイミングなのかはわからないのだが、仕事の都合上こうなったのだろうと思った。 リハ病院での1日はこんな感じだ。 AM6:00起床 AM7:00食堂に

          回復期病院 初期

          リハビリ病院に転院した

          2017年6月8日 5月20日にavm破裂で脳出血しavm摘出手術を行いトータル2週間ほど入院していた急性期病院を退院しリハビリ病院に転院した。 私が希望をしたリハビリ病院は県内からの転院希望者が多く。通常1か月から2か月待ちとのことだが、何をどうしてそうなったのかはわからないがわずか2週間という異例のスピードで転院することができた。 これには急性期病院の療法士の先生もビックリされていた。「みうさんは何もかもが早すぎる」と一言独り言を言われたことを聞き逃さなかった。 転院は

          リハビリ病院に転院した

          今にしてやっとわかったこと

          私は先日7月17日にお試しという形で 復職を果たした。 このブログは時系列で発症から入院リハビリ、その後を記していこうと思っていた。もちろんその気持ちは今も変わらない。記録しておきたいことはたくさんある。だが、ここ1か月ほどだが私の気持ちに少しずつの変化が起き始めているように感じている。 なのでこのように急遽今の気持ちを記録しておこうと思ったのだ。 発症からこれまで自分なりにずっと前向きに様々なことに取り組んできたつもりだった。声や文字にする言葉も後ろ向きなことは極力避けよう

          今にしてやっとわかったこと

          ヘルプマークについて自分なりの考察

          私が住んでいる自治体でも 今年7月2日からヘルプマークが配布されるようになった。 先般の脳出血の後遺症で左麻痺、注意障害、左同名半盲が残る私は 7月3日に市役所の福祉課に行ってヘルプマークをいただいてきた。 私は入院中に様々な評価によって上記の障害の診断を受けた。 ただし、身体障害については麻痺はあるのは事実ではあるが1級から7級までの間には該当しないという理由で身体障害者手帳の取得はできなかった。 高次脳機能障害については現在手帳を申請中ではあるが審査待ちとなっている。今後

          ヘルプマークについて自分なりの考察

          急性期病院の思い出

          私は2017年5月20日avm破裂により救急搬送された その後緊急手術となり血種除去とナイダス摘出手術を行った 5月26日脳卒中ケアユニット(SCU)から一般病棟へと移った 5月28日抜糸をし、このあたりから、リハビリ病院への転院の話が浮上してきた。 5月31日急にリハ病院から理学療法士の先生が面談に来られて 6月3日病室が変わった。 6月7日急に看護師さんに明日転院と言われた 6月8日午前9時前にリハ病院転院のため急性期病院を退院した。 一般病棟に移ってからの急性期病院

          急性期病院の思い出

          急性期リハビリその2

          一般病棟に移ってからは言語のリハビリも入ってきた。 構音障害や唇や顔にも麻痺が出ていた私には必要だったようだ。 リハビリ室で、ビニール手袋をつけた療法士さんに口の中に手をつっこんでもらって左半分の顔のマッサージをしてもらった。 なんだか複雑な気持ちでもあったが気持ちよかった。 発音、発生の練習もした。 ぱやかをリズムよく何度も言う パタカラと言う こんな感じの発生練習だった。 口の体操もした。大きく口を開けたり口をひいて「い」の形をキープしたりほっぺをふくらませたりすぼめたり

          急性期リハビリその2

          急性期リハビリその1

          一般病棟に移ってからのリハビリ内容について記そうと思う。 病室に居たら療法士さんが病室に急に迎えに来られるようになった。 ベッドから車いすに乗せかえてもらいリハビリ室まで車椅子で連れて行ってもらう。廊下での立ち上がりリハビリと毎日のトイレのために車椅子への乗り移りをこなすことによって、最初の頃より車椅子とベッドへの乗り移りはベッド柵などを使うことで多少体を支えてもらうのと最後ベッドの上に足を上げてもらう程度の介助で乗り移りができるようになってきていた。 リハビリ室は1階にあっ

          急性期リハビリその1

          体質の変化?

          一般病棟に移ってから数日。 救急搬送されてから10日過ぎた頃、一度も便が出てないなと思った。 看護師さんもそのことにまったく気づいていなかったようで、心配になって自分から申告することにした。 看護師さんもしまったという感じだった。さすがに10日以上も便が出てないのはヤバイとなったらしい。 SCUに居た頃はずっと寝たきりだったし、リハビリは多少しているとはいえ、移動は車椅子だし、普段はベッドの上のみであり自由に動くこともできずにたまにリハビリ室でリハビリでは、運動量がまったく足

          体質の変化?

          視野検査をした

          SCUを卒業するころに視野検査をした。 ぼんやりした頭で外来の眼科に車椅子で連れていかれて 視野検査を実施した。 この頃は視野が狭いという自覚はまったくなかった。 視野検査の結果は左視野がほとんどないとのことだった。 私は運転再開を希望していたが医師は家族に視野が良くなることはないので運転再開は難しいと告げていたらしい。 ただ、その事実は私に告げるとショックを受けてリハビリをしなくなるかもしれないので私には秘密にしておこうということにしたらしい。 私には左側が見にくくなって

          視野検査をした

          マネジメントの話

          今回は急性期病院の看護師さんとのことを記してみよう。 実は私が急性期病院に居た期間というのは2週間とちょっとしかないのである。 その間は意識レベルが低いこともありただなんとなく時が過ぎていくだけの感じだった。そんな状態での短い期間の中ではあまり看護師さんや療法士さんとコミュニケーションをとったり仲良くなったりということもなく、ましてや写真を撮る余裕もなかったため、覚えている限りでの会話の内容を思い出す。 SCUの時からそうなのだが忙しい急性期病院の看護師さんと話をすることがで

          マネジメントの話