「自分の考えを相手に伝えるのが当たり前」ではない国の場合。
先日、すごく共感したnoteの投稿に対して、それを書かれた人がTwitterで批判?というか言いがかり?を受けているのを見てとても残念な気持ちになりました。
でも、その方のコメント欄に書くにはあまりにも長くなってしまったので、自分のところへ投稿することにしました。
もうかれこれ40年以上、小さな頃からずっと抱いている違和感なのですが、日本にいながら「自分の考えを相手に伝えるのが当たり前」という行動を取ると、十中八九浮きます。攻撃されます。もしくはスルーされます(異論に同調すると自分の立場が悪くなるから)。
もちろんなんでもかんでも言えばいいってもんじゃないし、大人としてわきまえる時は必要だけど。
ずいぶん長いこと、それは「空気」とか「同調圧力」とかいろんな言葉で説明がされていますが、「俺(私)だって言いたくても(みんな)我慢してるんだからお前だけ言うな」という姿勢なのでしょう。
だからだと思うけど、年齢や立場を超えた対話が生まれにくい。受け入れられにくい(もちろん、そうでない人がいることは知っています)。
例えばすごくシンプルな目的があって、みんなロボットみたいに効率良く決まった動きを続けるだけなら、そういった集団的思考統制みたいなものは大きな効果を発揮するけど、一国の文化や経済環境が成熟してくるとそういうものはだんだん必要なくなってきます(そもそもいらないって話もあるけど、貧しい社会全体を一気に豊かにするときには有効な方法のひとつ)。
批判(クリティーク)が受け入れられなかったり、映像や文字を見たただけでとたんに怒り出してしまう人たち、価値観が異なる人をダイレクトに攻撃する人がSNSの世界では目立つし、見たくない言葉も勝手に目に入ってきます。
それはきっと、幼少期から学校生活のなかで「先生はこう思うけど、君はどう思う?」といった対等なコミュニケーションを与えられる機会が圧倒的に少なかったからではないか。
子ども時代にきちんと大人にリスペクトされていなかったせいではないか(それは本当に大切なギフトだ)。
いったん受け止めて、考えを消化したり別の形に変えて提案する時間を与えられてこなかったからではないか。
今、息子の学校に関わっていても、サッカーの指導現場でも同じ印象を受けることが度々ある。
コミュニケーションが指導者(上)から子ども(下)へ極端に傾斜している。
上意下達がスタンダード。指示が一方通行。大人社会も似ています。決まったことを今更グダグダ言うな、とか。とりあえず今は黙っとけ、とか。僕が子どもの頃と大して変わってない(あくまで僕の印象だけど)。
大抵の場合、発言を封じられてしまうことになる。
そもそもルールの意味を問おうものなら、まるで相手のプライドを汚してしまったかのような怒りを受けることもあるので、子どもたちも自由に思ったことを言えない環境にあるんだろうな(と、感じます)。
でも、異なる意見や批判を受け入れて対話につなげる方法(論破や勝負ではない)はトレーニングすれば誰でも出来るようになる。
これをしておかないと、自分の当然とは異なるものを目にすると、いきなり火をつけにくる(キレるとか絡むの比喩です)。おそらく自己防衛リアクションの一種だと想像します。
決められたルールやシンプルな原理に従うことに強いプライオリティを持ち続けると、自分と意見が異なる人を攻撃するようになる(自分にとって快適な状態=思考停止を脅かすから)。
強烈な指導者に率いられる組織や、熟成期間の短い宗教や政治運動が、時に異常なまでに過激になるのも同じような理由からでしょう。でないと既存の巨大なバリアに封じられてしまうから。
僕が「自分の考えを相手に伝えるのが当たり前」という考え方を自然に持てたのは、恐らく親の影響だったのだろうと今は思います。
親もその「当たり前」をやって、しばしば批判を受けていたのを見ていたけど、言葉を出して対話に繋げることは、物事を良い方向に進める第一歩だなと。
言う方も言われる方も、どっちも慣れてない。
答えがひとつだけじゃないことだって、たくさんある。
でも、人って言葉の生き物だから、ある程度の摩擦は避けられない。
ただ、SNSは悪いところばかりじゃなくて、地域や時間の縛りを超えて同志とつながり元気をもらえることもあるし、今のところ日本では、いま書いているこの文章が監視されていて、家を出たらいきなり思想警察に捕まって拷問される(1984 ©️ジョージ・オーウェル)なんてことはない。
という意味では、日本はまだ安全な国なのかもしれないけど(時すでに遅かったりして)。