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贅沢ひいん

『買ったものの使わない』とか『買ったまま仕舞ってある』とか『買ったの忘れてた』とか、とかくありがちなごくごく日常のひとコマであります。

でも、よく考えたらこれって恐ろしく贅沢な話ですよね?

例えば、どのくらいのものが『豪邸』かは知らないですが、人はその『豪邸』の中で繰り広げられる『貴族』か『豪族』のような絢爛豪華な暮らしぶりを、それも見たことは無いんですけど、空想して、想像して、勝手に羨んだりやっかんだり、ヒドイ時はありもしない噂話を吹聴したりする。

だいたい『見てきたような話ぶり』なのは、おおよそ空想であるからでして、絢爛豪華な竜宮城でのもてなしを受けた話を老いた浦島太郎があちこちで吹聴する姿は本文に描かれておらず、たいてい一度も行ったことの無い人が『聞いた話』としてするものと相場は決まっています。

そこで問題になるのは、その豪邸を『セカンドハウス』として建てたとか、『迎賓館』の代わりに使ってるとか、『犬しか住んでいない』とか、『転売目的』だとかなら、それはそれは贅沢な話に違いないワケですが、その中で慎ましやかな日常の生活がなされているとしたら、パッケージが豪華なだけで中身はごく普通の日常であります。

運転手付きのセンチュリーをハイヤーとして使っているのか、マイカーとしてセンチュリーを運転しているのかの違いですね。

たまには贅沢な夕食をと思ってテレビの料理番組でやってた『タンドリーチキン』ってのを作ってみようと思って、買ってあったヨーグルトの賞味期限がとっくに過ぎてて食べずにそのまま捨てた方がよっぽど贅沢な話であります。

ともあれ、個人の成功によって達成された煌びやかな生活や派手な日常、よく手入れされた庭、錦鯉が泳ぐ池、眩いばかりの絢爛豪華な装飾品の数々、豪勢な食生活なんかを『贅沢』だと表現することが多いですが、いやいや、決して贅沢という言葉はお金持ちのためだけにあるのではなく、むしろ市井の人々の日常にこそ渦巻いているのではないだろうか?

『学習塾』だってね、今では教育費の中で当たり前のように設定されているようですけども、これだって贅沢っちゃ贅沢ですからね?

学校で学んだ余分にまた時間やお金を使って勉強をする。しかもそこでしか学べないような特別なことかと思いきや、『学校のカリキュラムに沿った指導内容』だとか『受験対策で』とか。

『これだけやってダメなら諦めもつくだろう。』という意味で塾へ行っているのなら別ですが、まぁ、であっても贅沢な話ですね。

『教育費がかさむ…』って、いや、だったら塾に行かなきゃいいじゃない。

そして最も『贅沢』だと思うのは、『買ったまま着ない服』でしょうね、やっぱり。バーゲンで買ったにせよ、福袋に入ってたんだとしてもね?

『いつか着るだろう』『痩せたら着る』言い訳はどんどん沸いて出てくるんですが、その使い道に関してろくすっぽイメージも何も無いんですよ。

サイズも合わない、着るのか着ないかと言えばたぶん着ないだろうその服を買った帰り道、学習塾へ向かう子供とすれ違いながら、小高い丘に建つ白亜の豪邸を見上げながら、『あんな暮らしが出来たらなぁ…』と見てきたような空想にふけりながら、夕食のタンドリーチキンはフライパンで焼いたらいいのか魚焼きグリルで焼くべきなのか悩む、まさに『贅沢』なひととき。


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