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電池有能?
必ず毎日誰かが死んでる。生まれもしてるけど。
SNS上で『RIP』って見ない日は無いくらいだし、今もばったばったと人は死んでってる。やがて今いる人たちはみんな死ぬし。
もし寿命が判っているのなら、すべてを計画的に進めていくのに、今日の終わりに誰からも『明日』を約束してもらえない『不安』からのスタートであります。
もう慣れたけど。
何十年にも及ぶであろうこの人生の一歩目である『明日』の存在こそが不確定であるという、先ずは目覚めてみないと始まらないといういい加減な仕組みの中で夫々が人生を手探りで営んでおります。
懐中電灯の電池が切れているといざという時に役に立たないし、『長持ちする電池』を使う以外、電池を長持ちさせることは出来ない。
その『長持ちする電池』であっても個体差があるので、想定に反して『あれ?切れてる。』ってことだって起きる。
点かなくなれば新しい電池と入れ替える。そのためちょくちょくチェックする。それしか方法は無い。
『こないだ買った電池すぐ切れたで?』ってレジの人に言っても『ああ、そうですか。』としか返っては来ないし、よしんば『交換します』ってなったところで電池が切れて懐中電灯が点かなかった事実が無かったことにはならない。
エジソンの時代であれば『革新』であったこの懐中電灯の仕組みですが、ただ電気が通って電球が点くだけというシンプルで誰の理解にも及び易い。
であるわりに、この懐中電灯の出番なんてものはそんなに無い。
強固なインフラが整備された現代日本にあっては、そんなにしょっちゅう停電だってしないワケで、それをわざわざ『ユニバーサルデザイン』にする意味だって無い。して損はないけども。
人間として生まれれば寿命を全うするのが正義である。
なるべく長寿命であることを目指し、積極的か非積極的かに関わらず、なるべく消耗することからは逃れようとする。
やれ『たばこ』の被害がとか『酒』がどうとか、やれ脂の摂り過ぎだ、減塩生活がどうだ、糖分がどうとか、ストレスがとか、イメージの中に蔓延る『健康リスク』から逃れようとする。
一方、毎日の暮らしの中では、洗濯機に洗濯をさせ、掃除機に掃除をさせ、テレビに子守をさせ、電車や自動車に移動を任せ、コピー機に模写させ、スマホに書かせる。
そうやって稼いだ時間を『取り立てて必要ではないこと』に使うことが出来る贅沢な暮らしであります。
もし誰かが死んでいなくなっても、そのスペースにはやがてまた違う誰かが入ってくる。
『自分はオンリーワンの存在である。』と、同じパッケージの電池が言ってるようなものではありますけど、もちろんそう思っていればいいし『自分は他の誰とも違う』でその通りであります。
そうやって世界は動いている。それで正解です。
だからスイッチが入れば電気を流し、オフはじっと静かにしてる。気がついたら電気が切れてる。間違ってないしそれでいい。