言う方
『UFO(Unidentified Flying Object)』つまりは『未確認飛行物体』でございまして、UFOはどれも『円盤』とは限らないということですね。
飛んでいるのが『トナカイが引いてるソリ』であっても、『緑色の服を着た少年』であっても、国籍や所属が不明な物体が空を飛んでいるとすればそれは全て『UFO』であります。
逆に誰の持ち物かわかってる空飛ぶ円盤は『UFO』にあらずで、『3丁目の渡辺さんとこのお爺さんが飛ばしてる円盤』なのであります。
プロデューサー『矢追純一』を一躍、時の人とし、昭和に一大ブームを巻き起こした『UFO』でありますが、その写真や動画の多くは『ネス湖のネッシー』と同じく、よく出来た合成写真、または合成された映像だったことが後に判明し、あれだけ熱狂した日本国民も一気にその熱を失うのでありました。
フェイク動画がスマホで作れる時代になってしまえば、もうあれだけの熱狂を得ることは不可能でしょう。
日に日に進化する映像解析技術によって数値化され、信ぴょう性を維持しつつ、全てを白日の下に晒すことになります。真相究明という目的の為に。
だからと言って『UFOは存在しない』というものではございません!
今、目の前に浮かんでいる得体の知れない物体を目視で確認しているとするならば、それが目の病気に起因するものでない限り、若しくは薬物による幻覚でない限り、確実に『UFO』なのであります。
矢追純一
その代表作でもある『水曜スペシャルUFO特集』は、その未知の存在に対しての戦慄と、テレビに映し出される世紀の大発見レベルの興奮と、未消化のまま時間切れになってしまうテレビ番組のこの不条理感とで気持ちがグチャグチャになった中、『はよ風呂入って寝なさい』とモヤモヤしたまま翌日の教室、日本中の小学生のフラストレーションを爆発させ、大人への階段を強制的に登らせた罪深き番組でありました。
『科学で解き明かせないものは無い』
物理学者の大槻教授と超常現象研究家の韮澤さんとの幾多の泥仕合は、視聴者を興奮の渦へと巻き込んだ。
意外にも視聴者が期待するのは、大槻教授の科学の知見に基づく理論だった証明なんかではなく、韮澤さんの大胆な仮説と、大槻教授の反論を受けての苦し紛れの言い訳でございまして、映画『メン・イン・ブラック』を地で行くようなエキセントリックな発想にワクワクしたものでございます。
後に『空想科学』というカテゴリーを提唱した柳田理科雄先生には、この科学と空想の戦いはどのように映っていたのでしょうか?
実際に、大槻教授が『無い』と論理立てて解説したものの、韮澤さんが納得したものは無いワケですから、韮澤さんの空想は今でも輝ける空想のままであります。
『悪魔の証明』と言われる『無いことを証明する』ということは、ほぼムリゲーでありまして、数学的には確かに存在する『ゼロの概念』にしても、考えようによっては韮澤さんの苦し紛れの発想とそんなに違わないワケです。
きっと太古の昔から『無いことを証明する』ことに対して、世界中で大槻教授と韮澤さん並みの泥仕合が展開されていたに違いありません。
そんな曖昧な原則を元に生きる人間社会ですから、そこまで四角四面でなければならないなんてことは無い。
『科学で証明出来なければその話はウソだ』としてもです。あの空に見えてるジグザグ動く物体を『UFOだ!』と見えればそれでいい。
夢は夢、妄想は妄想、空想は空想、イマジネーションはイマジネーションなのでございます。
それを科学を根拠とした論理を押し付け『それは妄想である』と勝ち誇ったところで、そこには一つも夢なんて無い。
映画『ジャイアント・ピーチ』のラストシーン、主人公が『この町もきっと誰かの空想から始まったんだよ。』と巨大な桃に乗って仲間たちとニューヨークまでやってきたその大冒険を締めくくります。
科学は空想を打ちのめすためにあるものでは無い。むしろその空想を現実へと引き寄せるために使うべきものであります。
科学を揚げ足取りに使っても人類の発展には寄与しない。夢への実現に向けて発揮されてこそ科学であります。
あなたはUFOブームを経て、どんな大人になりましたか?