日記は毎日記す遺書
人生で『日記』などというものを書いたことがない。書こうかなと思ったことはあるし、1日か2日は書いたことがあるかも知れない。ただ続かない。日記言うてるにも関わらず。
『今日はなーんも無かった。』
厳密に言えばそんなワケはないんだが、あらためてしっかりと書き記そうとすればだいたいそうなるわ。
『9月29日(金)今日は破れた古い宝の地図を見つけた。』
『9月30日(土)今日は地図を頼りに冒険に出掛けた。』
『10月1日(日)今日は地図の切れ端を見つけた。』
『10月2日(月)今日は地図通りに進んだ。』
『10月3日(水)今日は宝を見つけた。』
なんて毎日はモンキー・D・ルフィでさえ続かんでしょうよ!
『今日はなーんも無かった。』
大人になると途端に書けなくなる文章だ。子供の頃はあんなに堂々と『今日は宿題をしてテレビを観てゲームをして寝ました。』ってつらつらと書けたのに、なぜそのままありのまま書くことが出来なくなるのでしょう?
『自分の結婚式のビデオ、観る?』
観ない(アハハ)いや、もちろん世の中には毎晩観てるって人もいらっしゃるかも知れませんが、たいてい観ないし、人にも観せないでしょう。いや、何かにつけ観せたがる人はいるかも知れませんが☆
自分の人生の晴れ舞台は観ないのに、なぜか日常の些細な出来事を綴っているだけの日記は『見直す』可能性を感じている。それどころか家族が見る可能性すらも感じている。
『今日はなーんも無かった。』
そら書けんわ…(トホホ)なのでこうして徒然にSNSで書き記していられることが性に合ってる。
もしかすればアタシの死後、家族が見るかも知れないけれども、『今日はなーんもなかった。』と書く必要も、無理に絞り出して書く必要も無い。なので心穏やかだ。
人生、もうそろそろ終盤に差し掛かって、これだけ好きなこと書き殴って、いざ『遺書』なんか逆にもう書けん(アハハ)
遺しておく言葉はもう無いけど、アタシが死んで家族が『なにくだらないこと書いてるんだ?』と、アタシを感じてくれることができるかもね?
人生の終わり、『今日はなーんも無かった。』ってSNSで連投出来る人生を送りたいものです。