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エスカレイター

『エスカレーターはどっちを空けるのが正しいのか?』

習慣とは恐ろしいものでございまして、どうやら日本では必ずエスカレーターの右か左どちらかに並ばなければならないとなっているようだ。

もしも一人で左側に出来上がっている列に並ばず右に立っていたとするなら左側から強烈に冷ややかな目線が痛いほどに突き刺さることでしょう。

時には後ろから『邪魔だ!』と押しのけられるかも知れない。

『エスカレーターは右側に立つものだ。』として生きてきた者が、急に左側には立てない。そんなすぐには脳の処理が追いついて行かない。

『エスカレーターは歩かない。』

これに尽きます。そらそうです。歩かなくていいようにエスカレーターが自動で運んでくれているんですからね?

逆に『なぜキミは歩くのか?』って話であって、ましてや『邪魔だ!』なんかじゃない。エスカレーターにとってはオマエこそが邪魔なのだ!エスカレーターのたった一つの仕事を奪うんじゃない!

そんなに歩きたいなら最初から階段を利用すればいいだけの話でありまして、『邪魔だ』じゃなくて、『オマエは階段を歩け!』なのであります。

だいたい人間など、常に自分が正しいと思っていなければ生きていけない生き物なのでございます。そのくせ人と違えば、真っ先にその違いに対して不安や違和感を抱いてしまう。

『なんであの人はあんな風にしか物事を考えられないのだろうか?』
『なんであの人はあんな風にしかものが言えないんだろうか?』

自分と違う考えを持つ人に対して、そしてその自信満々の態度に時に腹立たしささえ感じてしまう。

国も民族も政治も宗教も全て『違い』があるからこそ、それぞれが成り立つ反面、その違いを理解しかねるから、違えば違うほど人と人とが対立していくのであります。

SDGsなんつって『個々の違い』を認める発言をしていながらも、習慣であったり思想や価値観、アイデンティティー、その違いに対してこそ納得出来ないことがやたらめったら多いのが世の常であります。

『どう考えてもそうじゃねーだろうがよ!』

お互いがそう思っている。『左側の方が通りやすいだろうがよ!』『右側の方が通りやすいだろうがよ!』いやもう、エスカレーターのサイズを半分にしたらどうだ?

あ、力士が乗れなくなるか…

お互い『自分は正しい』と思って生きているもの同士、幾らお互いに説得しあっても、どこまで行っても解りあえないことを理解する方が健全であったり、やっぱり理解に至らないケースがほとんどであることを理解する方が建設的であったりする。

よしんば理解できる部分がお互いにあったとしても、習慣や価値観、伝統文化、思想信条、国家、宗教、アイデンティティーに従い、おいそれとは捻じ曲げることが出来ないのも人間の性なのでございます。

国ってそんな感じよね?

『優柔不断と柔軟さは似て非なるものであり、偏見と思い込みは別物である。』

人間に対して研究に研究を重ね、いかにその本質に迫ってみても、いかに多くの人たちを説得したとて、人間は『自分が正しい』と思ってしか生きられないものなのでございます。

なので『幾ら言ってもアイツはダメだな?』と、ずっと批判していることが、お互いの理解そのものなのでございます。

どうかこれ以上、エスカレートしませんように。

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