たとえBAR
『キリストの弟子』なんつってますけど、律法学者の中から選ばれた人でも、ユダヤ教の研究をしている人でも何でもなくて、むしろ学力だってそんなに無いただの人ですからね?
そんな弟子の素朴な質問にイエス・キリストはいつも単刀直入に答えるんですが、入り組んだところはいつも『たとえ話』をされるんです。
それがかえって良かったのかも知れませんね?
弟子に向けて話された言葉の多くが後に福音書として編纂され、当時の弟子たちと同じく『たとえ話』として反芻することによって、イエス・キリストが伝えたいポイントをよりわかりやすく整理することができます。
『怪我の功名』と言ったところでしょうか?
ただ、イエス・キリストが伝えようとした本意と、弟子が理解したものに若干の相違が発生しているケースもゼロじゃないと思うんですね?
実際に『これ、どっちとも取れるな…』というたとえ話もありますんで、伝える側のスキルによっては「毒にも薬にもなる」し、むしろ曲解すれば毒として生成しやすくもある。
『派生』
基本線は同じくとしてもディテールで異なるパターン、長い時間の中でまた違った解釈をする教祖が出現するパターンなど、どの宗教も『派生』する。
イエス・キリストが生きた時代のユダヤ教にも「ファリサイ派」「サドカイ派」がありましたし、弟子たちによって各地にイエス・キリストの言葉が広まり『キリスト教』として確立された後に、幾つも『派生』していった。
原理主義的なものから楽観主義的なもの、商業主義に走るものまで、幾つもの宗派が興ってはまた消えて行ったでしょうね?
イエス・キリストの言葉を受けるこちら側は時代によって変わっていくんですが、イエス・キリストの言葉は全く変わることは無く、貨幣通貨は『デナリオン』のまま、カビも生えず、腐らず、消えない。
もちろんどの宗教の何を信じてもいいとは思うんですが、心の安全の為には『教祖』を信じるなかれ。ってことなんじゃないですかね?
誰がどういう意図でいつ言ったかはもうほとんどどうでもよくて、ただ心にいつまでも留まる言葉を持ち続けられることが『信じること』なんじゃないか?と思いますね。
それが『宗教』であるかどうかに限らずね?