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【連載小説】私小説を書いてみた 2-1

前回までのお話https://note.com/sev0504t/n/n9d37e9144687
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治療

「こんにちは。その後どうですか」 

 三回目の皮膚科の「治療」だった。
 坂下先生はいつもの調子でパソコンに何かを打ち込みながら僕に尋ねた。

「全然治らないというか、生えてこないというか、むしろ悪化してる気がするんですが」
 一週間前の診察の時よりも、楕円形の脱毛部分の手触りは確かに大きくなり、新たに側頭部にも新たな脱毛箇所ができていた。

 「ちょっと見せてね」
 先生は立ち上がるとゆっくり僕の頭を観察した。髪を洗うとたくさんの髪の毛が抜けてしまうから昨日は洗わなかったことを思い出した。
 先生は丁寧に側頭部から頭頂部へと指を動かすのが分かる。むず痒さとわずかな痛みを伴った。

 「確かに、新たな箇所と広がりがあるわね。ちょっと横になって」
 促されて僕は診察台に横になる。
 「痛み感じるかな」
 爪楊枝のようなものをあてながら先生は問いかけた。
 「あ、はい」
 「じゃあこっちは」
 「あまり感じないけど感覚分かります」
 こんな調子で僕の頭部をまんべんなく先生は刺した。
 「ドライアイス治療しときますね」
 いつもの作業に先生は移ろうとしていた。

 病院の消毒の匂い。診察室の部屋は四畳半くらいだろうか、専門書が詰まった書架と、塗り薬のサンプルのようなものが何かの系譜のように整然と並べられている。昔からの理を示すかのように。
 ベッドのような茶色い診察台には目立たないがシミのようなものが見えた。そのなかにあってドライアイスの入るガスボンベのような鉛色の容器は、昔話に現れたオーパーツのように異彩を放っている。

 「このまま、全頭脱毛ですかね」
 ちょっと笑って僕は言った。
 先生は準備の動作を止めた。
 「私ができることには限りがあるかもしれないわね。でも望むならどんな状態になっても治療はしますよ」

 「全部なくなってもですか」
 「そうね」
 そういうと、坂下先生はドライアイスをピンセットでつまみ、僕の頭皮に押し当てた。今日も看護師はいなかった。

 受付の女性スタッフと看護師は一人、坂下先生だけの小さな皮膚科。昔見た小児科の待合室のソファと同じ感触。喘息になって母親に連れられ診察をしてもらった夜。そんなことが思いおこされる。まっさらな白い壁が漆喰の白のように見えて、吸い込まれるように僕の脳みそを揺らした。

 「手どうしたんですか」
 不意に坂下先生は尋ねた。

 僕は自分のものでもないように、信じられないくらいに冷静に手を見つめる。
 「彼女にフラれて自分でしました」
 真実はわからない。もっといろいろな理由があった気がしたが、事実はそんなところだろうと自分で自分を納得させた。少しも先生は驚かない。

 「彼女さんと、うまくいってなかったの」
 「どうでしょう。でもきっとそうですね」
 三回目の受診で初めてだ。先生と眼があう。坂下先生の瞳は眼鏡の奥にあって、知的であって、それでいて優しい眼差しだった。

 脱毛の範囲が広いから「治療」の時間も長くなっているような気がした。それを何だか得したような気持ちになっている不思議さがあった。

 「彼女の気持ちを察してあげれなかったんだと思います。お互いの将来とかこれからのことを。よくわからないでいたのは僕なんですけどね」

 「そう。彼女はなんて言ってたの」
 「逃げないで欲しかった、と言ってました」

 「逃げないで…かぁ。私も言ったことあるかも」
 先生は斜め上をちらっと見たかと思うと、わずかな含み笑いを浮かべ、また治療を継続した。

 「でも、逃げたんです。僕は彼女から」
 「なかなか男女の付き合いは難しいわね。男性と女性には大きな河の。そうね、何だかその対岸にいる人と人のよう。でもそれが性差なのかもしれないわよ」

 先生の遠くを見るような眼差し。僕にはわからない、とてつもない歴史や経験があるのだろうか。それを理解することは、それこそ対岸に咲く花の名前を言い当てるような難解さがあった。

 「また一週間後かな。また変化があれば教えてね。いろいろ無理しないようにしてください」
 言葉をひとつひとつ大事にひろい集める自分がいて、母親ともお姉さんとも違う何か別の親近感を僕は得るのだった。

 治療を終えて病院の外にでれば、オレンジ色の薄雲が鮮やかに広がる。東の空は雲がなく、これから始まる夜が迫る。透き通った空気が少しずつ冷たさとガソリンの匂いのようなものをはらみ、僕はよろけた。

 今日は何も買わずに帰った。

 散らかった自分の部屋に、明らかに増えた抜け毛がある。髪をセットすれば脱毛箇所が隠れていたが、いよいよ限界がきていた。受け止められなくても、受け止めるしか方法を知らない無知な僕は、少しだけ強くなったような気がした。また、誰かが「気のせいだよ」と囁いた気がした。

 その次の日、僕は非常勤の高校教師をやめた。

つづく
 
 

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