【連載小説】私小説を書いてみた4-2
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再会
風邪のせいか身体も重たい。ベッドから玄関ドアまで妙に長く感じた。
ドアスコープと呼ぶには覚束ない黒い穴を老人のように屈んで覗きこんだ。
「ごめんください。大家の山寺ですけど、湊さんいますかね」
その声と姿に口座の残高があと少ししかないことを思い出した。居留守を決めてこの場をやり過ごすこともできたが、人と会話することが自分の生活に必要な事でもあり、姿が変貌してもそれを遠ざけてはならないという不思議な真面目さが僕を突き動かそうとしていた。上背の低い初老の山寺さんが覗き見ると妙に大きな男性に見えた。
「すいません、ちょっとお待ちください」
弱々しい声だったと思う。玄関脇の無造作に置かれた食料品の横に同じように無造作に置かれたニット帽をかぶり、静かに鍵を捻るとドアを開けた。
「あ、昨日かな不動産屋から連絡あって、先月の家賃が引き落とせないって言われましてね」
大家の山寺さんは一瞬だけ視線をおとしてから表情を変えずに言った。
「すみません。今週中には」
「お願いしますね、2ヶ月滞納されちゃうと私が対応したくても、不動産の管理下になってしまうからね」
「保証人とかに連絡が」
「まあ、そういった類いの手続きになると思うけど、早めにお願いしますね。」
「すみません。なんとか払えるように」
山寺さんは視線をあげると室内でニット帽をかぶる僕を見ると、少し怪訝な顔をして、「では」と言って去っていった。
オンラインのやり取りのように、平面的で異質だった。人と会話をするのがはじめてだった人でないものに育てられた子どものような感覚だろうか。それとも記憶を失くしてしまった老人だろうか。言葉が形を変えて自分に異なる音になり、不思議と重さはなくなった。
相変わらず身体は重く、そんな平面的なやりとりですら今まで感じたことのないくらい長く感じ、相手の機微のひとつひとつが、自分の変貌した何者かに向かって来るような錯覚じみたものがあった。
身体を曲げながら通帳を探していると通帳の下にあったのだろう、あるものが床に落ちた。落ち葉のようにはらはらと落ちたもの。それは坂下先生の名刺だった。裏面にはいつか見た一文がある。胸を撃たれたように、また僕を捉えて離さなかった。
「私はあきらめないわ」
じっとりとしたあぶら汗のようなものが手に滲んで、それをつまみ上げた感触はまるで恒温動物の耳でもつまみ上げたようなものだった。
通帳の残高が四桁しかないことがどうでもよいくらい、その名刺はこれからの僕にとって無視できないものであった。
身体は石のように固く重いが、名刺にある大学病院の住所を確認して、素早く着替えを済ませた。安物のダウンジャケットのチャック付きのポケットにゆっくりそれを収める。
会わなければと思った。意を決した僕は身体を北風が渦巻く外の世界に身体を漕ぎ始めた。これが大きな航海になる予感があった。何が見つかるか、何を見つけるか。あてもない航海への多大な予感だけ確信に満ちていた。
心も身体も最後の力を振り絞るような思いに、現実とか虚構が追いつかないで、落ち葉の海に踏みしめた音が乾いた空気を震わせる。
歌は忘れてしまった。歌はあったはずなのに、理世の姿が思い出されたのに、歌は忘れてしまっていた。
空は雲ひとつなかった。景色の境目が変わった。重力や気圧さえも変わる世界に僕はいよいよ一人を感じた。
つづく