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【連載小説】私小説を書いてみた 2-4

前回までのお話はhttps://note.com/sev0504t/n/nf5a766c493cd
最初から読まれる方はこちらどうぞ。

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治療

「どうしてクリニック閉めてしまうんですか」
 僕は診察台に壁を向いて身体を横たえると、坂下先生に尋ねた。

「お恥ずかしい話でね。医者の不養生っていうのかな。体調が芳しくなくてね、大学に戻ることにしたのよ」
「そうなんですか…急だったから、具合あまりよくないんですか」
 坂下先生は今までの診察のなかで一番優しく、脱毛箇所を確認してくれていると思った。

「大丈夫よ。精密検査もこれからあるしね。ちょっとやっぱり広がりがあるわね、あと新しいところも脱毛し始めてる」

「もう止まらないですかね、抜けてくの」
「脱毛スピードは少しはやくなっているけど、根気強く治療してきましょう。違う専門外来がある病院の紹介状あとで渡しますね」
「やっぱり、今日が最後の診察ですか」
「ええ、ごめんなさい。中途半端になってしまって」
 先生は力なく答えた。

「あの、先生ありがとうございました。3か月前から、多分先生に診てもらえなかったら、自分がどうなってたか想像もできない」
「ええ、そう言ってもらえたら嬉しいわ。医者としても、私としても」
「でも……もう医者には行かないので、紹介状はいりません」
 先生はゆっくり僕の髪をかき分けながら、少しだけうつ向いたような気がした。

「そう、でもまだいろいろな方法があるわ。諦めないで治療してきましょう」
「本当にいいんです。今日まで治療できたことが、自分でも不思議で。諦めるわけじゃないんです。本当にもうしばらくは」

 なぜだろう。はじめから、この頭皮の状態を誰かに、しかも先生以外の誰かに見せることは裸の自分を晒されるより辛いことのように思えたのだ。
 少しの沈黙の後。

「うん。分かりました。医者としては行って欲しいけどね。最後にドライアイスの治療もするわね」
「この治療って、僕は好きなんですけどどうなんですか。効果とか」
「うーん。正直、本当にどのくらいの効果があるのか、私たち医者でも見解が別れるの。あまり研究も進まないし」

「やっぱり、命に関わらない病気だからですかね」
 僕は身体を起こして、治療の準備をする坂下先生の後ろ姿を見つめた。クリニックには誰も患者はいない。看護師と受付の女性の世間話がドアの向こうからかすかに聞こえた。

「命に関わるかどうかなんて、簡単に言えないわ。でも、医学って、医療って不思議よね。重病人が沢山運ばれてきたら、誰を助けるべきか命の選別が行われている。声には誰も出さないけれど、リスクをどうとらえるか、なんとなく決まってくのよ」
 先生は言った。

「死なないと分かっただけでもよかったです」
「あなたは大丈夫よ。ちょっと冷たいかな。頭動かさないでね」
 先生はゆっくり、僕の頭皮にドライアイスを押し当てた。冷たさと痛み、先生の手の温もりがごっちゃになって、僕を包みこんでいるような気がした。

「前も少し話したけど、この病気はね、ストレスや、精神的な変調が、直接の原因ではないの。あくまでも誘因」
 ドライアイスは溶けてなくなったのだろうか、またもうひとつ鉛色の容器から新しいものが取り出され、僕の側頭部にあてられた。

「でも、死だってそうだと思うの。病変という直接の原因だけでなく、時にはあくまで誘因だったなんてこともね」
「先生、今日はよく話しますね。最初に会った時とは別人みたいだ」

「そうね、今日は特別よ」
 診察と治療を終えて、待合室で会計を待っていた。硝子ブロックの壁際から、夜の闇が迫ることがわかる。車のヘッドライトから放たれた光が硝子で屈折し、光が二筋にわかれ待合室を照らした。

「湊さん」
 先生が、待合室に現れた。
「これ、総合病院の紹介状です」
「いや、先生いらないですよ」
「とにかく持ってくだけ」
 先生は僕の手をとり、両手でその封筒を握らせた。先生の手の温かさと、ハンドクリームの微かな香りがした。
 先生の静かな、でもなんだか鬼気迫るような様子に、僕は従った。

 帰り道いつもと同じ道を歩けば、もう二度とこの道を歩かない、進まないという当たり前のことが不思議でたまらない。地続きだった世界が少しずつ変わっていく。左手の傷跡はこの道を忘れないためのマーキングだ。空は半分雲に隠れ、上弦の月が顔を出す。雲の揺らめきと流れがそれと分かるほど、世界が絶えず変化していることを今更ながら僕は思うのだった。

 自然と歌を歌っていた。

 Desperado,
ならず者だね

why don't you come to your senses?
気付いてもいいんじゃないかな?

You been out ridin' fences for so long now
そんな長くフェンスの上で座り込んで

Oh, you're a hard one
本当に真面目なんだから

But I know that you got your reasons
でも、君にだけにしか分からない訳もあるんだろう

 イーグルスの少し霞んだ陽に焼けたようなCDジャケットを思い出す。僕は異世界からきたならず者なのか。そうやってみんな、自分が特別な存在だって思いたいんだろう。みんなきっともがき苦しんでいるんだろう。自分にしか分からない。人は孤独だ。当たり前でとてもシンプルな事実。圧倒的な今という現実。だからこそ人との関わりは尊かったのだろうか。世界は残酷でもあり優しくもある。その時僕は、ほんの少しだけ世の中のことが分かった気がしたんだ。

 アパートに着くと電気代やらガス代の請求書が無造作にドアのポストから玄関に散乱していた。僕は電気をつけ、それらを拾い集め、部屋の四つ切り画用紙くらいの小さなテーブルに置いた。
 坂下先生からもらった紹介状も同じように置いておく。
 明日は、喫茶店の仕事がある。生きていくためには収入が十分でなかった。求人誌を見ながら煙草に火をつけた。

 抜けていく髪が、テーブルにも数本あり、不意に視界に髪の毛が現れ、ゆっくり引っ張るともう抜けていた毛かどうかもわからないが、当たり前のように落ちていった。もう一度髪を掴めば数十本が、痛みもなく頭から離脱する。もう限界かもしれない。スキンヘッドにするという考えが脳裏をちらついた。

 僕はふと坂下先生からもらった封筒の不自然さに気がついた。総合病院への紹介状ならば宛名や何かしらの表題があるだろうに、その封筒には何も書かれてはいなかった。

 僕はゆっくり、その封を開けた。そこには本当の紹介状と、坂下先生の名刺が入っていた。名刺には先生が戻ると言っていた大学病院の住所と電話番号が書かれている。裏面を見る。手書きで、「私はあきらめないわ」と書かれていた。

 少し笑った。いつぶりだろう。小学生が気になる女の子と隣の席になったような、そんな締まりのない笑い顔をしていたと思う。と同時に、先生は何をあきらめないのか疑問に思った。僕の症状だろうか、それとも先生の身体のことだろうか。もっともっと僕の知らない何かなのだろうか。

 僕は封筒を大切なものをしまうレターケースにしまった。その重量を感じられるほどそっとしまったんだ。

つづく

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