【ショートストーリー】39 等間隔
「空はこんなに青いのに、いつになったら私たちは外へ遊びに行けるんだろうね」
リコリスキャンディを口に含んだ君がつぶやく。
「例の伝染病が落ち着いたらかな」
ぼくは何となしに答えてみた。
「ねぇ、自由に外出できるならどこに行ってみたい?」
「そりゃあ、観覧車のあるドライブウェイなんか最高」
「うん、うん。私はね、鴨川を歩いて、洒落たカフェでゆっくり紅茶がいいかな」
「そういえば、君がくれた紅茶。フォートナム・メイソンだっけ懐かしいね、伝統の味っていうのかな?」
「よく覚えてるのね」
ぼくらはこの春から二人で暮らし始めた。小さなアパートの角部屋は時勢に中指を立てるくらい、明るい日差しと空の青が目にしみる。
「伝統は大事だよ」
そう言ってぼくはグレンフィディックの緑色に手を伸ばそうとした。
「昼間からやめなよ、最近毎日だよ」
君は先回りして伝統のシングルモルトを棚の奥にしまい込んだ。一瞬歪んだぼくの顔に君は優しく微笑む。
「じゃあ、この部屋でできることを考えようか?」
「仕事はどう?」
「仕事かい、何もする気がおきないんだ。例のジョブカフェでの研修も、この通りなくなって、何もできない、何もしたくない」
「全部この時代のせいにしちゃうのは簡単だけど、私たち……生きていきたいでしょう」
「生きる……ですか」
ぼくは自分宛ての督促状の束を眺めて、なんて君は寛容で聡明なんだと、自分の気持ちの奥の方にある黒い靄をなでた。
ポットのお湯は水蒸気をけたたましい音とともに吹き上げ、君は忙しそうに家事を続けた。
30代の男女がこんなにも未来を見通せないものかと、自分たちではない何かに物申して、人権やら生存権やらを声高に叫ぶこともちょっと違っているように思えた。
団塊の世代の亡霊がぼくらのDNAに残したしこりは、無意識にか意識下にかはわからないが家族とか恋愛とか結婚とか、あるべきものがあるという前提のなかで人生を陳腐なものにしていた。それから脱却しようともがくことも知らない我々をあざ笑うかのように、世界を例の伝染病が覆っている気がぼくはしたんだ。
「僕らって家族なんかな?」
君は手を止めた。
「そういう話はしない約束だったよね」
君は振り向かずに、淡々と言葉を並べた。昼食の用意をする君の横顔は、今日も穏やかで優しく見えた。
「お昼食べたら、鴨川を散歩しよう。カフェはやってないだろうけれど」
「大丈夫かな?捕まらない?」
「その時はその時だよ」
君は「家族」が嫌いだった。
いつも産み落とされる環境を選べない無力さを嘆いていた。でもそれがどんな理由によるものか君は語らなかったし、ぼくもきかなかった。
ただひとつ言えること。大事なことは、君がぼくといることを好意的に受け入れてくれたことだ。
フォートナムの幻惑か、マリアージュ・フレールの気まぐれかはわからない。君はぼくとの日常を選び、受け入れ、まるでからっぽな紅茶箱のような家に同居した。
2週間ぶりの外は、今までと同じだった気がした。
アパートのすぐ近くにある鴨川を歩けば、時折人が佇んでいるのが分かった。
それは、一人であることより、二人、三人か四人であった。それをぼくらは恋人同士にも見えていたかもしれないし、明らかに家族としての集団として捉えていたかもしれない。
20分ほど歩き、ぼくらは川沿いのベンチに腰掛けた。
川の向こうに等間隔に並んだヒトの群れを蛍光色の腕章をつけた役人が注意して回るのが見えた。
ヒトとの距離を試すように、しばらくするとまた、ヒトが等間隔となり、役人もついには諦め、その等間隔の数直線に加わった。
四人の大人と子ども一人が、シートを芝生にひいてお弁当を広げるのが見える。
君はそれに気がつくと、あれは家族なのかな?と訝しく笑い、煙草に火をつけた。
「ねぇ、さっきはごめんね」
「いや、こちらこそ」
「聞いてみたいんだけどさ」
「何?」
「家族の第一条件って何かな?」
君は試すようにぼくにそう問いかけた。
「距離かな?」
「え?」
「自然とできる距離」
「じゃあこの距離は?」
不思議がる君からぼくはタバコを取り上げ、深く吸ってみせた。吐き出した煙は空の青さのなかに絵の具のように混じりながら消える。
「これで、これだけで……十分さ」
ぼくの言葉に君は笑った。
君が笑えば、1週間またがんばろうと思えた。
大切な感情は単純だ。
「結婚する?」
「うん…」
若草色の風は柔らかく、等間隔でできたヒトたちの間を行ったり来たりしているような気がした。
おしまい