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【ショートストーリー】41 なべぶたに口

フェンスを乗り越え、たんぽぽの綿毛に息を吹きかけるだけで良かった。

でも、楽になれそうな気がしたんだ。

「おい、ちょっと待てよ、おい!」
右腕が焼けたように熱くなった。
痛みじゃない。それは熱のようだった。
大学生かな?そう思った。

「何してんだ、危ねえだろ?」
ぼくは何も考えていなかった。思ったより綿毛が翔ばなくて、その時は何だか体よく全部終われそうな気がして線路にいただけだ。

フェンスの外へ無理やり引っ張り出されたぼくは、さながら糸が解れたマリオネットのようだったろう。一瞬の出来事のBGMは、貨物列車の走行音と金属の擦れ合う音で埋まる。

「中学生か?名前は?」
低い声だった。

ネルシャツを着た大学生風の男性がぼくに尋ねる。
座り込んだぼくは思考とか感覚が鈍化していて何だかぼーとその男性をながめていたと思う。

「ったくなぁ。まあ、いいや、横座るぞ」
田畑や山を縫うローカル線の直接的な沿革には人通りはなく、乾いた5月の風が頬を刺した感覚に、少し気持ちが戻ってくる。

「おれはリョウだ、なべぶたに口書く漢字な」
「リョウさん……ですか」
「やっとしゃべったな、まあ、いいや」
リョウさんはポケットから無造作に赤色の箱から煙草を取り出して火をつけた。

空の碧さに絵の具の試し塗りのような白色。雲のような煙と焦げ付いた香り。また、感覚が取り戻された心地よさがあった。

「一本もらっていいですか?」
「え、いや、お前今いくつだよ?」
「中学生」
「はぁ?」
リョウさんは一瞬面倒くさそうな顔をした。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
「ほれ、火」

はじめての試みにも昔知ったような動き。父の僅かな記憶に導かれるように火をつけた。
吸い込めば肺というより頭に向かって血が逆流するような刺激とともにわずかに吐き気がおそった。
「うぉえっ、うぇ、ふー」
「肺に入れ過ぎだ、最初は少しずつだよ…って、何中学生に教えてんだかな」
リョウさんは、目にシワをつくり笑った。

「なんで助けてくれたんですか?」
ぼくの質問に、リョウさんは少し驚いた顔を見せたが、また煙草を吸い込み、吐き出しながら答えた。

「昔、同じようなことして粗挽き肉になった奴がいてね」
「やっぱり痛いですよね」
「知らねぇよ、そんなん」
「ぼくの父が電車に飛び込んだときは水風船がはぜたようだったらしいです」
「それは痛さとかいうレベルじゃねーな」

「痛いのは好きじゃないです」
「おいおい、自分は良くてもあとのこと考えろよ。電車は遅れるわ、清掃に時間かかるわ、見た奴らはトラウマもんだろが」

「そうですね、それはよくないですね」
「案外、お前冷静なんだな」


「で、リョウさんは、なんで助けたんですか?ぼくを」
「いやいや、理屈とかないだろ、何も考えてねーよ」
「……ぼくは自分が同じ立場だったら、多分見ていることしか、できないかもしれません」
「別にそんなんどうだっていいんだよ。好きにすりゃあいい。感覚や本能は人道とか道徳を超えんだよ」
「感覚ですか」

「じゅあ、おれも聞くぞ?なんで危うくミンチになりそうなことしてたんだ?」

ぼくは身体に少しだけ馴染んだニコチンの感覚に揺れた。

「たんぽぽ綺麗だなって思ったんです」
「はぁ?」
「それで遠くで踏切の音が聞こえてきて……なんだか楽になれそうな気がして」

リョウさんは、呆気にとられたような顔をしながら聞いていたが、すぐに真顔になった。

「楽になりたかったのか?」
「なんとなく」

「楽の反対って知ってるか?」
「苦しみですか?」

「アイだよ、なべぶたに口の哀、哀れみみたいな意味だ」

「世の中をもっと哀れんでやれよ、煙草の煙と一緒にな。終えるのは思ったより簡単だけどな」

「学校に全然行きたくないんです、いや、行かなきゃと思うんですが身体がきかなくて」

「身体がきくときに、行けばいいし、行かなくたって大丈夫だ。それよか、世の中を知り続けていけよ。それが楽とか哀れみとか、もしかしたら怒りとかビビリとか、とにかく面白い」

「なんか、面白いですね」
「ああ、面白えんだよ。この世は、かわいいあの子とイチャイチャする前に、終えんじゃねーぞ」
「それは、ヒトそれぞれかと…」

「まぁ、いいや。おれはこれで行くわ。毎日ここバイクで通るし、また会えたらいいな」
リョウさんは、オフロードバイクのような緑色のバイクにまたがると破裂音を轟かせた。

「ぼく、名前はケイです。なべぶたに口の、京都の京」
ぼくは、大きな声で叫んだ。

リョウさんは、手を挙げ合図するとフルフェイスのヘルメットをコツンと2回叩いた。「いっしょだな」とリョウさんが言っているような気がした。そのままバイクは国道に駆け出して行った。


音が去り、フェンス越しにたんぽぽの単調な黄色は魅力に乏しかった。

「なべぶた……ね」



数年後の同じ場所。同じ5月の晴れ。
ぼくは夢中でスカートを引っ張っていた。


目の前で髪の長い女性がフェンスを越えようとしていたからだ。素足で泣いているように見えた。


「ちょっ、待ってください!!」
「離してよ、何、あんた」
「落ち着いてくださいよ」

フェンスに彼女の身体を押し付け落ち着かせる。
汗ばんだ手と、彼女の荒い息が見えた。

「とりあえず、これ」

ぼくは煙草を勧める。
彼女は、ゆっくり煙を吸い込んだ。

「名前は?」
「ケイです。なべぶたに口の京」

「アイ」
「え?」
「名前だよ」

ぼくも煙草に火をつけてなんだか可笑しくて笑った。
彼女は不思議そうに、むしろ奇異なものでも見るようにぼくを見つめていた。

「なべぶたに口のアイですか?」
「は?」

おしまい


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