【連載小説】私小説を書いてみた 1-2
前回のお話
https://note.com/sev0504t/n/na0680fb0802d?magazine_key=m8bdfdc55c4a5
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異変
朝起きると大量の抜け毛が枕にあった。僕は現実に引き戻された。奇異な現実が今のお前のリアルなんだと人ではない何かに告げられている気がした。
非常勤の高校教師と、大学時代からの喫茶店でのアルバイト。手取りでは16万と少しだ。奨学金の返済と、生活費でギリギリの日常に、立ち止まることは生活を維持できないことを意味していた。
毎年のように教員採用試験に挑戦するが、こんな地方の高校採用は狭き門だ。
3ヶ月前、5回目の受験も薄っぺらい封筒が送られてきた。それだけで合否がわかるには十分だった。
僕は報告のために実家に電話すると父親が出た。
「今日採用試験の結果が来て、その、やっぱりダメだった」
電話越しでもため息と、苛立つ父親の様子が分かった。表情すら分かるほど何回も見てきた静止画が僕のなかをめぐっていく。
「お前な、いったいいつになったらまともに働けるんだ」
「わざわざ大学までいかせてやって」
僕は思った。言葉は難しい。どんな言葉も選べない時があるからだ。この気持ちはなんだろう。結果がすべてというシンプルで分かりやすい残酷な真理。大人になればなるほど誰も努力や過程を評価してくれない。そんなことはずっと前から分かっていたはずなのに。
「ああ、とりあえずしばらくはまた頑張るよ」
「しばらくだ。お前来年29なんだぞ何考えてんだ。採用試験だって一次試験すらも通ったことないなんてどうかしてるぞ。やる気あるのか。なぁ、おい」
こういうのを罵倒とかモラハラと言うのだろう。自分の人生の価値がどこにあるか一瞬わからなくなった。
僕は何も言わずに電話を切った。
ちょうど車を運転していた。このままガードレールを突き破ったら誰か心配してくれるかなというなんとも稚拙な空想にとらわれる。でも、そんなことができる勇気があれば、もっと違う自分がいただろう。ずっと冷静でずっと厭世的な僕をつくる要素をもう一度自覚した。
いつからだろう。気がつけば家族のいる家はのっぺりとした二次元の場だった。自己肯定感というチーズは溶けてベタベタになっていたし、元の形も僕は忘れてしまっていた。世間体という意味の言葉が世の中にたくさんある。それを繰り返していた親に疲れていた。今の生活は経済的にはつらいが、生きていることをまだ実感できた。
僕は皮膚科に2回目の診察に行った。
少し明るめのピンクがかった白衣だった。
「こんにちは、どうですか。状態、ちょっと見させてもらいますね」
前回と同じように抑揚がない声を聞きながら、なされるがままに頭皮をさらけ出す。
2回目の診察でやっと先生の名前を覚えた。坂下クリニックの坂下先生。40後半だろうか。メガネが似合う小柄な先生の変わらぬ表情とテンポ感に僕は少しだけシンパシーを感じた。2回目の診察にしてそんな気持ちがわきおこることに、人との関わりが希薄になったこの3ヶ月を思うのだった。
「あー、ちょっと増えてきてるね。4つあるけど小さいのはちょっと生えてきてますよ」
「今日は血液検査しときましょうか」
手際よく診察を終えると看護師を呼び採血が行われた。何度やって慣れないものだ。血を抜かれている時にどこを見ればよいのだろう。僕は天井を見る。微かにシミのようなものがふたつあって、直視していると片方のそのシミがあたかも広がりを見せているような錯視。やっと採血は終わった。
「先生、どんどん広がっている気がするんですけど。家でも朝起きると枕元に大量の毛が抜けてるんですよ」
僕はできるだけ素直に、精一杯の思いを言葉にのせた。
「髪が抜けるなんて、過去にこんなことありましたか。あとは、ご家族が同じような症状がでたとか」
「いえ、たぶんはじめてだと思います。家族は分かりません」
「おそらく、自己免疫疾患のひとつで、本来は外敵が来た場合に攻撃をする免疫機能が、何らかの異常で髪に、毛母細胞に攻撃をしている」
「治療方法はないんですか」
「ステロイドの投与や専門外来に行けば、また特別な治療も考えられるかな。もし必要なら大学病院の紹介状も書きますよ」
「ありがとうございます。でもとりあえず命に関わるとか、そういうものじゃなさそうなんで、しばらくまた様子見ます」
「わかりました。今日もドライアイス治療はしましょうか」
「あ、はい」
ドライアイスはいつもの重そうなガスボンベのような容器から取り出され、今回は先生自ら僕の頭皮に当てられた。痛みは、やはりなかった。
「痛みはないかな」
「ない…です」
「そう。前に似たような患者さんが何人かいました」
「どんなふうになっていくんですか」
「個人差があるわね。治る人は一年くらいで元の状態になる人もいました。でも」
少しだけ間をおいて、坂下先生は続けた。
「症状が進んで全部髪がなくなった人も一人だけいたわ」
脅しや何かの宣告でもなく、ただ事実を先生は告げていると分かった。ドライアイスの冷気は少しだけ優しかった。
今日の「治療」は3分間だった。少しだけ頭皮の感覚を得ると、何か改善されたような気持ちになった。でも気のせいだよと誰かに言われれば、たちまち脆弱な確信は薄れるだろう。
空は大体8割が雲だった。日が短くなってきたのか夕焼けは遥か彼方に消え、街の明かりが澄んだ紺色の空気を彩った。
髪を恐る恐る摘まんで引っ張る。
痛みは、ある。
ふいにある歌の歌詞が浮かんだ。
最終列車の 行き先は オーライ
眠った街 照らすような
確信を もって
最終列車の 行き先は どこだい
油絵のような青じゃ
気持ち 塗りつぶせないぜ
絶望は栄養だと強がった心理学者と、事実と矛盾のなかに真実を見いだしていった歴史家を思い出す。「そんなやつはいないぜ」とファンクロックが僕の背中を押した。
つづく
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この物語はフィクションですが、作者の体験がもとになっています。