偶然SCRAP#55: 誰がJordan Wolfsonを好きなのか?

2010年代を振り返るシリーズの記事がfriezeにあがっていて、どれも面白そうだけど、どれも長い…。とりあえずシリーズ最初の記事を読んでみようかなぁということで、この記事。

ジョーダン・ウォルフソン(1980-)は、テクノロジーをガッツリ使ったニューヨーク生まれのアーティスト。大学では彫刻を専攻して、フィルムやビデオ作品やコンピューターアニメーションなんかを作ってて、最近はデジタル系から始まって幅広いメディアを取り入れてるらしい。2009年にFrieze財団からカルティエ賞をもらっているようだ。この辺はwikipedia情報。

2010年代すごくぽい。いや、そもそも振り返るシリーズは長い上に、ウォルフソンの作品は衝撃的で、VRの作品なんかは、ヘッドセットつけると映像でウォルフソンが人を死ぬまで殴ってる映像が流れてる(もちろん合成)とか、鎖に繋がれた巨大な操り人形がクレーンで床を引きづられたり、床に打ちつけられたりするその名も「有色人形」みたいな。ということで「うげぇー、こんなの倫理性ないじゃんとか、不愉快じゃ、とか暴力的!」みたいな声があるし、当の本人も「アートに倫理性なんかない」とか「生産性なんかあるもんか」なんつってたりするんだけど、そこんところ本当はどうなんだ?というのが紐解かれてる。

重たいけど、境界線に位置するものを見せつける、これぞアートの真骨頂。結局は、なんだかんだ言っても、本人は否定してたりするんだけど、それも引っくるめて、「こういうのを目の当たりにすると、自分の子供をより人間として見るよね」とか「これを見たら、今まで無意識に差別してたことに敏感になるかも」とかそういう可能性を提示してるんじゃないか!?と言う人の話が紹介されてる。

VRとか8Kとか、何が現実でどれがウソなのか、その境界線が曖昧になってくるこれからにおいて、ジョーダン・ウォルフソンという人は、ガッツリとした技術をベースに(だからこそ)先取りした世界を見せてくれてるSF作家みたいなアーティストなのかもしれないな、と思ったわけであります。

イギリスのアートマガジン「Frieze」に掲載のレビューを引用紹介します。

The 2010s/
誰がJordan Wolfsonを好きなのか?
BY DIANA HAMILTON
6 DEC 2019

Wolfsonはアートは倫理とのつながりはないと考えている。この10年の衝撃のあとでは、彼の発言を本気だと捉えるは難しい。

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Jordan Wolfson, Colored sculpture, 2016, installation view, David Zwirner, New York. Courtesy: Sadie Coles HQ and David Zwirner

私が大好きな人たちの大半は、Jordon Wolfsonについて聞いたことがない。私は「ごめん、誰?」と繰り返す人たちを喜んで迎える。彼らは大げさなブヨのように彼を払い退けることを私に許す。「おぉ、Whitney Biennialで観れたVRの作品のあの男だろ?彼が他の男に叩きのめすやつ」(Real Violence, 2017)とか「あのアニマトロニクス(ロボット)の女性を作った馬鹿だろ?Lady Gagaを聞きながら、魔女の仮面を被って、腰を回しながら、鏡に映る観客にアイコンタクトを送り続ける間、皆が並んで観てるやつ」(Female figure, 2014)
私は、Wolfsonの作品の関連付けを認めようとするある人に気づく。しかし、彼が彼のお気に入りの作品をー分節化されたロボットで、赤い頭の操り人形で、頭や手や片足がチェーンでクレーンに繋がれて、何度も地面に叩きつけられるーと描写し始め、私が「あぁ、「Colored sculpture…」(2016)」と反応すると、「ジーザス、なんて作品なんだ」と彼は急にたじろぐ。

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Jordan Wolfson, (Female figure), 2014, installation view, David Zwirner, New York. © Jordan Wolfson. Courtesy: the artist, David Zwirner and Sadie Coles HQ, London; photograph: Jonathan Smith

Wolfsonの作品は、挑発的な不合理な物事を通して成り立つ。それはしばしば、より暴力的なビジュアルとは調和しないボイス・オーバーや音楽の形式をとることもある。脚本家のJeremy O. Harrisとの最近の対談である「Dialogues: The David Zwirner Podcast」で、彼は「Female Figure」のLady Gaga, Paul Simon, Robin ThickeそしてLeonard Cohenの組み合わせについて次のように説明している。「あの編集はワークしてないし、内容もワークしてない、全部がチグハグなんです」。この作品は、女性蔑視についてでなければ、女性に関することでさえなく、組み合わせ自身についてのものである。―このロボットの彫刻は観客を直接的に見つめるために0.5百万ドル(約5千万円)の製造過程によって作られて、音との乱雑な関係性はあなたに無意味の意味を問う。

インタビュワーたちがこれらの言動―「Real Violence」の中でのヘブライ人の祝福のような言動ーについて質問するとき、Wolfsonの説明は、「なぜ?」に対して賢く答えようとする努力する人々、つまり寛大なる自称批評家たちの力を削ぎ落とすような意図が垣間見える。例えば、その暴行は、反ユダヤの暴力という真実に取り組んでいるとか、反ユダヤの暴力に対する復讐劇を演じているとか、考える人たちもいる。The New Yorker紙では、Alexandra Schwartzは、これを、恐怖のイメージのウイルス的な拡散という文脈の中で読み取った。New York紙では、Jerry Saltsは、どういうわけか、トランプへの非難として、これを理解しようとする。Wolfsonは、驚くこともなく、素晴らしいものには批評性を備えているという考えに縛られた彼らが提示してきた意味を拒否する。その代わりに、彼のアートは、単純に、肉体的な反応を引き起こすために効果的に使用された「一形式」なのである。彼は、例を挙げて、祈りの音声が映像(「Real Violence」)の途中で突然切れているのは、それが「形式的な装置」過ぎないものと分かるようにするためだ、と説明する。

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Jordan Wolfson, Real Violence, 2017, installation view, 2017 Whitney Biennial. Collection of the artist. Courtesy: David Zwirner, New York, and Sadie Coles HQ, London; photograph: Bill Orcutt

PodcastでWolfsonの声を聞いていると納得感がある。彼は、「検閲官」や「道徳の旗振り役」や消し込む人や道徳主義者―彼らはアートは不愉快を与えたり危害を加えたりしてはいけないといけないと求めてくる―といったファンタジー野郎を魔法で召喚するとき、彼はエセ左翼主義者のPodcastをたくさん学習したボットのようになる。そいつらは、ホストたちが、不快感を与える権利を共同で弁護してくれるところにいる。Wolfsonは、「私たちは、道徳的な判断をしようとしている人に手を貸すべきでない」ということをHarrisに思い出させる。これが私に、18世紀の美学理論の議論に立ち戻りたいと思わせる。Rousseauが、1758年にM. D’Alembertに警告したとき、それは核心をついていたのかもしれない。「娯楽なんて役に立たないものは、人生がとても短い人間にとって悪である」。(公平を期すと、Rousseauでさえ、都会に住んでいる私たちのような人々にとっては例外としている。―Wolfsonを観て浪費する時間は、空想的な堕落から免れさせてくれる時間である。)

Wolfsonは、アートについて受け取ったアイデアをすべて拒否しているのではない。彼は、見せかけの真剣さをもって、一握り程度の決り文句を繰り返す。例えば。アーティストは自分の直観だけが頼りだとか、他者を不快にさせることについての配慮することは真のアートの創造を妨げるとか、観客は、与えられたアーティストの意識にアクセスできることに感謝すべきだとか、作品を観るための「自由になる」、つまり判断からの自由というのは、日々の瞑想を通して獲得した個人個人の平穏に似ているとかである。しかし、彼の言うことを本気で受け取るのは難しい。ー彼は、この雑誌にかつて書いた通りJeff Koonsの引用を読んで「無判断の状態に目を向けた」と言いたいのか?技術的な専門家を雇って裕福になった人と同じで、彼は自分の成功を自分の才能によるものだと考えている。しかし、それ以上に、彼は「形式」というものに信頼を寄せている。

境界線を越えることに心を奪われたアーティストや批評家は、直観的な内容への信頼からあなたの気を逸すために、「形式!」という言葉を繰り返すのが大好きだ。William S. Burroghsが、歯状の直腸のことや「タピオカのように精子」をぶちまける若者のことを語ることについて書いたとき、彼はカットアップ手法という形式における自由というものを示してみせた。Oliver Harrisは、それを「望まなかった過去を消そうとする衝動を系統立てる方法」と呼んだ。「Seedbed」(1972)という作品で、Vito Acconciがギャラリーで自慰行為をすると、彼は「部屋の構造の一部」になり、観客を二人称で取り扱うことによって、彼らをこのパフォーマンスに惹きつける。―Wolfsonが観客への「形式的な架け橋」としてアイコンタクトを使うのと同じだ。Marquis de SadeのEugenieが、梅毒持ちの男にレイプされた母親を目撃し、彼女の膣を縫い上げたとき(「Philosophy in the Bedroom」(1795))、Gilles Deleuzが1967年に「言語の表現的な使用法の驚嘆すべき発展」と呼んだ例を彼は提供している。

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Jordan Wolfson, Colored sculpture, 2016, installation view, David Zwirner, New York. Courtesy: Sadie Coles HQ and David Zwirner


有名人として、Wolfsonが好む形式は、告白する人々のようだ。彼のfriezeのエッセイの中で、彼は「A Clockwork Orange」(1971)の説明を通して、彼の女性に対する関心について昔話をしている。

私は騙してものにしようとしていた女の子たちと映画を見ようとしていました。私たちはリビングのソファーに座って、ネズミを追う蛇のように彼女たちに近づこうとしました。この映画にあった象徴的な精神分析を彼女たちに試している間ずっと、彼女たちはキスされる価する知性を持っているか見極めていました。私は、とても、とても傲慢な若者でした。私は一人だったら、Stanley Kubricに出てくる女の子たちでマスターベーションをするでしょう。差し迫った危険なところで、たいてい興奮します。暴力に興奮したのではなく、Kubrickが女性たちを型にはめるという逆説的な手法に興奮したのです。

こういった10代の入学試験のような出来事の中に、大人になったこのアーティストの考え方の兆しが見える。彼は、それ以来、不快を引き起こしたいという欲望をより意義深い使い方に置き換えることを学び続けている。境界を越えていくコンテンツの歴史は、昇華の歴史だ。とりわけ、直観を創造に方向づけ直すアーティストは、表現したい物事の組み合わせを広げることで、アートの形式の可能性を広げる。Wolfsonが「越境的な性による加工」について話すときが、最も明瞭だ。しかし、彼は何を加工しているのか?例えば、サド、彼自身については、フランス革命闘争や権利に関して拡大する政治的-哲学的な議論の文脈でのみ読み解かれ易い。Jacques Lacanは、サドの倫理を、他者に対する私たちの道徳的責任は、他者に自分たちを利用させ、弄ばせるのも義務になってしまうという点で、逆転したカンティアンの定言命法として説明する。

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Jordan Wolfson, (Female figure), 2014, installation view, David Zwirner, New York. © Jordan Wolfson. Courtesy: the artist, David Zwirner and Sadie Coles HQ, London; photograph: Jonathan Smith

「Dialogues」のエピソードの中で、Jeremy O. Harrisは、Wolfsonの道徳主義と教訓主義に対する批判について賛同している。「もし彼がコンテンポラリー・アーティストならば」―彼らはWolfsonが人づてに聞くこの褒め言葉について議論するー「彼は、「Real Violence」を作りたいのだろう」。しかし、彼の対談相手とは逆に、Harrisは、彼の作品の倫理的な支柱に意識を向けている。Wolfsonは、教訓的な演出に対する嫌悪感をシェアしている。それは、彼が教えたいことがないからではなく、もっと効果的な方法で教えたいことがあるからなのだ。ナンセンスの「生産性」の観点で、Wolfson、「ホワイト・ナンセンス」と彼が呼ぶものに対する包容力について話している。彼の「Slave Play」(2019)の異人種間のS&Mの舞台について議論するとき、彼は観客が作品の難解さについて長い時間考えることを強制させたかったと説明した。「だから、あなたは自覚なき差別を今度はしなくなるかもしれないし、[…]あなたの息子を人間らしく見るようになるかもしれない」。作品は「非生産的」であるべきとか、美は倫理と結びつかないと言い張ることによって、Wolfsonは代わりに越境性という選択肢さえも排除する。そこ地点から、彼は、技術的に熟練した制作+衝撃+不安定化する並列+空、そして無判断といったビジョンを提供する。これが彼の作品を特別なものにするのだ。この10年の退屈な作品の中で。


DIANA HAMILTON
Diana Hamilton is the director of the writing centre at Baruch College, The City University of New York, USA. Her most recent book is God Was Right (2018), from Ugly Duckling Presse.

訳:雄手舟瑞

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