CはBと違って、周りに「いじられる」タイプではなかった。それ故にCに見方がいないし笑いにはならなかった。 分かりやすく言うと、Bはいじられるけども一緒に遊ぶタイプ。Cは関わると鼻につくしすぐに親が出てくるので皆に煙たがれるタイプ。 1回目の話し合いと違い、担任の言葉を真似したりそれをおかしく笑うクラスの皆。 そしてそれを叱る担任。 真似ワードが出て逆効果。 Cの親からの手紙を読み上げ、こんなに心苦しいことがあるかと熱弁する担任。 その手紙の内容がとても難しい言葉を使っ
Cが気に食わないその子は、グループ内でその事を話した。 そして、水泳の時間。 男女に別れて別の教室で着替えるのだが、事はそこで起こった。 男女に別れているとはいえ、皆はバスタオルで作ったポンチョみたいなものの中で着替えを済ます。 Cが着替えている時、グループの人りがそのタオルを剥がしたのだ。 「やめて!!」 Cは大きな声で言った。 普段言葉を発さないCが大きな声で言葉を発したことに驚きつつもそれが逆に面白かったらしく、次々にバスタオルめがけてちょっかいを出しだした。
話し合いでは担任の先生が熱く語った。 それが子供達にとっては面白かった。 ワード一つ一つに癖があり、真似をする子もでてきた。 次に問題になったのは、もう1人のグレーの女の子。こちらはここではCとしよう。 Cはあまり言葉を発さなかった。友達もいないからいつも1人。そこで誰かが話しかけると聞いた事とは違う返事が返ってきたりする。 絵が書くのが好きだったが、お世辞でも上手いと言えない。そんな子だった。 ある日クラスの掲示物にその子の書いた漫画が掲載された。クラスの子達を紹介する漫
まずいじめ。 現在で言う、一般学級に居る「グレー」の子が数名居た。勉強もそんなに遅れている訳では無く、でも他の子と少し違う感じのする子だった。 その子は、女の子グループに限らず、色んな子に「いじられる」感じの男の子だった。 ここではBとしよう。 Bはいつも1人で居ておっとりしてして、お話する際は吃る。そしてそれをいじると「助けてママ〜助けてアクション仮面〜」と言う。 それが皆のいじりになる種だった。 そして言葉を発する際に、胸に手を当てて指をパタパタと動かす。 Bは男
その他に5年生の時に印象的だったことは、学級崩壊。 クラス編成をミスったのか、よりによって元気な女の子達が集まった。 担任の先生は男性で学年主任を務めるベテランだ。 だが、学級崩壊はおこった。 初めは女の子特有のグループを形成し、ちょっとやんちゃなグループがあるなぁトラブルにならないといいなぁといった感じだったと思う。 まぁ、それがトラブルの種でして。 40人でひとクラス。男女比は半々。 そして問題のグループは女の子7人。 何が問題だったか長くなりそうだがせっかくなので
小学5年生 小学4年生の私の決意もつかの間。 その友達は学校側の勧めで、支援学級と普通クラスを行き来するようになった。 同じクラスではあったので、お迎えに行ったり送りに行ったりの当番はいつも私が手を挙げてやったいた。 使命感もあるけれど、支援学級のお教室と普通クラスのお教室の間を2人でしっかりお話できることが嬉しかったのだ。 決意したというものの、小学5年生となると私も周りも多感な時期。 子供とはとても残酷で、「しんしょーと友達かよー」みたいなことを普通に発言する。(しん
届いた手紙の内容は、はっきりとは覚えていない。 だか、ものすごく私は泣いたのを覚えている。 普段の私を知っているから大丈夫だよ。 寧ろ急に妹が泣いてごめんね。 よく妹も見てくれていたもんね。 良かれと思って言ってくれたんだよね。 またいつも通り遊んでほしいな。 そんなことを書いてくれていたのだ。 今思い出しても目頭が熱くなる。 こういうお母さんだから、あの子達は互いに尊敬しあって仲良しなんだ。 そう感じもした。 自分主義の私の母とは全く違うので、羨ましくも思った。
「お姉ちゃんよりしっかりしていて偉いね」 そう発言した私。 この妹が私の性格と似ていたから。 頑張っていることを知っていたから。 褒める意味合いで良かれと思って発言した言葉だった。 だがしかし。 その妹は泣いてしまった。 急に泣き出し、私も含め、その場の周りはなぜ泣き出したのか分からない状況だった。 そのままバディのしまいへ保健室へと連れて行かれた。 後でそのバディである同じクラスの子に聞いてみると、 「お姉ちゃんは頑張ってる!そんな事言わないで!」と言っていたそうだ。
私と同じクラスだった子がしまいだった、「年下組」の2年生の中に知り合いがいた。 2年生の子のお姉ちゃんは私と友達で、その友達の妹だった。 私と友達のお姉ちゃんの方は、少し発達障害があった。その子は支援学級にいくかいかないか悩んでいた。 ご存知の通り、当時はまだ今のように発達障害について理解や発展がなかった。 学年が上がるにつれて、他の皆はその子から離れていった。 私は単純に一緒にいて楽しいと思ったから遊んでいたし、その子のお母さんからも頼られていたため、自分なりに近くでサ
小学4年生。 3年生の時の同じ担任。 その担任の先生からは「人間性」を学んでいった。 私に最も欠けていた部分だ。 まぁ、でも結構面倒臭いしきつい先生だったので、当時の私は反抗的な部分もあったかもしれない。 4年生は小学生の中では「年上組」になった学年。低学年・中学年・高学年と分けると3年生と同じ真ん中の中学年ではあるが、2つに分けると5・6年生と同じ扱いになる。 私の学校では「しまい」というバディ制度があった。 6年生は1年生と。5年生は3年生と。4年生は2年生と。
30歳になった私。 友達も後輩も近所の子も皆、結婚をして子育てをしている。 そして日が経つにつれて、また結婚の報告や妊娠の報告。 これらは素直に嬉しい。本当に。 おめでとうと心から思う。 でも何故か寂しい気持ちにもなる。 皆が少し遠くへ行ってしまうような、私だけ取り残されていくような、そんな感覚に。 だからといって、結婚願望がある訳では無い。 自分が好きすぎる故なのか人間嫌い故なのか、他人と空間を共有したり時間を共有したりするのに抵抗を感じる。 私はこのまま一人で老いて
無事に私も小3へ進級。 小3の記憶は殆どない。 小3小4と担任の先生が同じだったこと、その先生は面倒臭いと有名な中年女性だったが、私は上手いことやり取りできていたこと、割と好き先生だったこと。くらいかな。 その担任の先生は、勉学以外のことを沢山教えてくれた印象がある。 例えば、給食のカレー。 ご飯の器にカレーをいれるかカレーの器にご飯を入れるか。 「カレーの器にご飯を入れなさい。そうしたらご飯の器は汚れなくて済むでしょ」と言ったような事だ。 「給食のおかわりをして
当時の校長先生は、小柄な女性。 私と目線を合わすためにしゃがみゆっくりと話しかけてきた。 話の内容は覚えていない。 だが私は、電話をかけずに鉛筆をけずらせてもらい、その日は済んだ。 親は仕事で夕方からいない場合が多かったので、殆ど祖父母と一緒にいた私は、当然その出来事を祖父に話す。 その場では穏やかだった祖父だが、何かしら学校にしたのだろう。 校長先生と算数の先生と担任の先生が家に来て謝罪をしていたのを、私はこっそり階段から覗いていた。 そして算数の先生は代わり、
私はゆとり教育世代。 算数に少人数教室制が導入され、40人程のクラスを「じっくり」「ゆっくり」「どんどん」といったように、能力別で3クラスに分けて授業を行っていた。 私は「どんどん」クラス。 移動教室で普段学年に関わっていない算数専門の先生に教わることに。 その先生は中年の女性。 野球やサッカーを習っていて人懐っこい男子生徒がお気に入りと、生徒や親間でも噂されるほど依怙贔屓が激しいと有名な先生だった。 授業が始まるまでに、赤青鉛筆のみ削っていい決まりがあった。 私もそ
問題児の私も小二に進学。 ここで私は今までと少し違う路線になる。 といっても、子供。すぐに別人のようにはなれない。 何が変わったかと言うと、学校行事等のリーダーや係に積極的に立候補する。 そして取り組む。 先生達に挨拶を自分からするようになるし、自分から先生方に関わるようになる。 前から目立つことは大好きだったが、何かが外れたように積極的になった。 そうして、クラスや学年の先生だけでなく、学校の先生たち皆が私を知るようになった。 図工の授業ではアイディアでコンクー
ある時、私は事件を起こした。 掃除の時間、落ちていた星型のキラキラしたヘアピンを拾った。 私は何も考えずに頭に着けた。 少し経ち、同じヘアピンを探しているとクラスメイトの女の子が私の元に尋ねてきた。 ふたつでひとつのセットで、その片方を無くした、ちょうど私の頭に着いているものと同じだと。 私は、これはこの子のだ。返さなきゃ。と、頭では理解していたものの、何故か、「知らない。これは私のだ」と一点張り。 帰宅して学校から家に電話があった。 そうして母に事が伝わった。 母