認知症介護小説「その人の世界」vol.3『ほら、見えるだろ』
6時50分。
この時間に客がいなくても、征男は7時の閉店時間を過ぎてから片付けを始める。
地域で店を開いて数十年、征男にとって床屋は天職だった。それは理容の腕が優れているためだけではない。征男にとって床屋の仕事とは、髪を切り髭を剃るだけではなかった。征男が一番大切にしているのは、客との関わりだった。
客に触れながら話しをすると、相手の人生の断片に触れることができた。それによって征男は、金に代え難い教訓や幸せを得ていると感じていた。それは、相手が大人であっても子どもであっ