文章を書くということ
文章を書くこととは、パズルをはめることだと思う。
パチリ、パチリ、と規則正しい音をさせながら、パズルのピースが台座に漏れなく隙なく嵌まって行く。
台座はそもそも規則正しく敷き詰められていて、どのパーツも外せない。
下絵は最初から決まっているのだ。
どこに嵌めてよいかわからないけど、どこかに嵌める必要のある言葉。
この表現がこの文章には必要なことはわかっている。
まだそれを置くべき場所が掴めていないだけだ。
文章の中で、まだ適切な使うべき言葉は見つかっていないけれども、何かが嵌まるはずの部位。
そこに嵌まる絵はどんな絵なのか、そのイメージだけは掴めている。
ただ適切なピースが手に入っていないだけだ。
そのピースを全部手に入れて、台座の適切な場所に嵌め終わった時に、文章は完成する。
だからまだパズルが完成していない文章を見ると、適切な言葉が適切な場所に嵌まっていないことにもどかしさを覚える。
文と文とのバランスが悪い、この文は短すぎるし、この文は長過ぎる。
このパラグラフは軽すぎる、このパラグラフはもっと量を増やさなければ足りない。
それは下絵が正しく描かれていないから。あるいは充分に下絵をなぞれていないから。
この言葉は、この文章の中には必要だけど、居てはいけない場所にいる。
正しいピースは手に入っているけれど、その使い方が間違ったままになっている。
この言葉、この部分は要らない。余計なピースを紛れこませてしまっている。
それは文章の流れやバランスが十分に出来上がっていないから。
そうして下絵をしっかりと固め、パチリ、パチリ、と几帳面にピースを敷き詰め終わって初めて、文章というものは一過性のものから蓄積に耐えうるものになる。
咄嗟に言葉が出ることへの評価が高まり続けている。
言葉が時間対効果で量られるようになっている。
大量の言葉が泡のように生み出されては消えている。
そういう言葉のあり方とは別に、蓄積して推敲を重ね続け、完成を憧憬し続ける言葉というものを、私たちは持ってもよいと思うのだ。
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