恋の儚さ ~NGT48『一瞬の花火』~
NGT48の10thシングルの表題曲となりますこの曲は、11人選抜のトリプルセンターという珍しい形態をとっています。
もともと48グループでは何かにつけて16人構成というのが基本で、シングル表題曲の選抜においても原則的にはそうなっていますよね。
シングル表題曲の選抜で16人より大人数というのはときどきありますけれども、16人未満となると、グループ全体ではこれまでに9例しかなく、レアケースといって良いのかもしれません。
前作のシングル表題曲では、中井りかの卒業シングルということもあって23人の全員選抜(活動休止中のメンバーを除く)であったのに対して、今作では一転して11人の少人数にしたということには何かしらの考えがあってのことなのでしょうかね?
頭サビ
「恋」を「花火」に喩えて、その儚さを表している。
恋の最中にあるときには、見るものすべてが鮮やかな色彩を帯びていて世界が華やかに見えるけれども、その恋が終わりを告げるとモノトーンの世界に放り込まれたような感覚に陥ってしまう。
そうした恋の終わりの絶望感を「散った後には 真っ暗闇」というフレーズで表しているわけです。
そして、「光の後で 音だけ響く 幻なのか?」というのは、恋が終わった後の虚しさを表現しているのでしょう。
1番Aメロ
ここの歌詞からわかることは、この主人公は過去の恋を回想していて、その恋は学生時代のことだということになります。
つまり、今はもう社会人になっているということなのでしょう。
1番A'メロ
いろいろと懐かしい思い出が蘇ってくるけれども、結局お互いのためとか言って別れてしまったのだよなぁ……
といったところでしょうか。
1番Bメロ
別れてしまって気づく恋の儚さとでも言いましょうか。
美しい思い出だけが心の中に残っている。
1サビ
打ち上がった花火の音に振り向いてみれば、花火が美しく花開いているのを見ることができるかもしれません。
けれども、その次の瞬間には暗闇が待っている。
恋とは、そんな花火にも似て儚いもの。
ずっと輝き続けていることはないわけです。
恋が散った後に残るのは、寂しさと虚しさばかり。
2番A'メロ
あのころの幸せだった気持ちが蘇ってくると、今でも別れたことを後悔してしまう。
なんだか未練たらたらですね。
2番Bメロ
美しい恋の記憶も思い出すとつらくなるから、忘れられるものなら忘れたい。
けれども、決して忘れることなどできやしない。
学生時代の恋の回想ではありますけれども、もしかしたら別れてからそれほど月日が経っているわけではないのかもしれませんね。
ある程度月日が経ち、新たな恋にめぐり合うなどしていれば、この学生時代の恋は純粋に美しい思い出として胸の中にきれいにしまわれることになるでしょうから、思い出すとつらくなるということは、まだそこにまで至っていないということになりますよね。
そうした「君」への未練の気持ちと、忘れたいけれども忘れられないという心の中の葛藤が、ここでは表されているのでしょう。
2サビ
「あれが恋と 気づかぬまま」とありますから、おそらくあのときの「恋」は、相当に淡い恋だったのでしょう。
お互いに好意は寄せていたのでしょうけれども、恋人と言えるほどの間柄にはなっていなかったのではありませんかね。
俗に言う、友達以上恋人未満の関係といったところでしょうか。
「胸の奥に 枝垂(しだ)れ柳」というフレーズに、その辺のもどかしさ、あるいは手応えのなさが表れているのではないでしょうか。
Cメロ
「(あの日から)」というのは、言うまでもなく別れた日からということでしょう。
この主人公は、「君」と別れて以来ずっと後悔を引きずっているような感じですね。
こういった様子からも、別れてからそれほど月日が経っていないのだろうなということが推測できますよね。
落ちサビ
ここまでずっと「恋」を語ってきたのですけれども、ここにきて初めて「愛」という言葉が登場するわけです。
結局、あのときの「恋」は「愛」に至る前に淡い恋のまま終わってしまったのでしょう。
「恋」が「恋」のままである限りにおいて、それはあたかも夏の夜空を彩る花火のように、一瞬の輝きを放った次の瞬間には跡形もなく消え去ってしまうような儚いものでしかない。
けれども、その「恋」が「愛」にまで昇華していたなら、何があろうともずっと一緒にいられたはず。
少なくとも、この主人公はそう信じているわけです。
そうは言っても、今となってはもう「君」はいない……。
ところで、気をつけて聴いてみると気付くと思うのですけれども、曲中のサビの部分で花火の打ち上げ時の「ヒュ~」という音が入っているのですよね。
そして、花火が開くときの「ボーン」という炸裂音は、この落ちサビの「愛するとは」と「ずっと手を繋ぐこと」との間に1発分のみ入っている。
つまり、ここが最も強調したいところということになるのでしょう。
では、何を強調したいのかというと、さしずめ、恋の儚さに対する愛の永遠性とでもいったところでしょうか。
そこには、この主人公の、あのとき「君」を愛していさえすればという後悔の気持ちが滲み出ているのではありませんかね。
ラスサビ
ラスサビ冒頭部分は、「僕」と「君」との恋の終わり、別れ際の2人の心境を表しているのではありませんかね。
儚く終わった恋の後には虚しさだけが残る……。
ところで、この曲を初めて聴いたときに、前作のカップリング曲「僕はもう少年ではなくなった」を思い出したのですけれども、そういった人も少なくないのではないでしょうか。
この2曲で描かれているストーリーが、「一瞬の花火」を前段として、それからさらに月日が経って、すっかり大人になった主人公の心情を描いたのが「僕はもう少年ではなくなった」であったとしても、まったく違和感がない。
「一瞬の花火」では、恋の儚さを花火に喩えて歌い、「僕はもう少年ではなくなった」では、青春の儚さを花火に喩えて歌っている。
「花火」という言葉が、どちらの曲においても重要なキーワードとなっているわけです。
さらには、「枝垂(しだ)れ柳」という言葉も、2曲に共通して表れていますね。
「一瞬の花火」では、淡い恋のもどかしさ、手応えのなさを表し、「僕はもう少年ではなくなった」では、別れた「彼女」のそっけなさ、他人行儀な態度を表している。
この「彼女」というのが、「一瞬の花火」における「君」と同一人物であったとしてもなんら矛盾を感じない。
ちなみに、どちらの曲もサビ始まりの曲になっていますね。
もちろん、特に意図してつながりがあるように作っているわけではないと思いますけれども、なにぶんにも48グループの楽曲における作詞のほとんどを秋元Pが手掛けているわけですから、同じようなシチュエーションだったり、同じような出来事だったりを描いている場合、複数の楽曲でそれぞれのストーリーに共通性が表れてくることもあるでしょう。
なにせ、現時点で2000曲を超えているのではないかと思われるほどの楽曲数ですからねぇ……。
各楽曲の描くストーリーが、一人の作詞家の思考から生み出されていることを考えると、つながりがあると受け止められる楽曲があっても不思議ではありませんよね。
そうであるならば、1曲1曲を個別に楽しむのとは別に、複数の曲の関連性を発見して、続き物のストーリーとして楽曲を聴いてみるというのも、48グループの楽曲を聴くうえでの楽しみ方のひとつと言えるのではありませんかね。
引用:秋元康 作詞, NGT48 「一瞬の花火」(2024年)