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『ABRACADABRA』から見える、BUCK-TICKが辿ってきた軌跡 その2
はじめに
(この記事は私が以前公開した、「『ABRACADABRA』から見える、BUCK-TICKが辿ってきた軌跡 その1」の続きとなります。)
今回も、BUCK-TICKのニューアルバム『ABRACADABRA』における過去作からの影響と「新しさ」について述べる。
前回公開した記事では、デビュー前後〜90年代の作品を例に挙げながら、BUCK-TICKのルーツや培ってきたものなどについて書いた。
今回はその続きであるゼロ年代以降の作品を取り上げつつ、『ABRACADABRA』と比較考察していく。
ゼロ年代前半―『極東 I LOVE YOU』/櫻井の詞と「リアリティ」
『ABRACADABRA』で櫻井敦司(ボーカル)が書いた詞。
実にバラエティ豊かで様々なストーリーを見せてくれているが、そこには「リアリティ」という一本の筋が通っている。
例えば『URAHARA-JUKU』。
タイトルから感じ取ることができるのは、多くの人が親しみのあるあの街。
物語の中でいたいけな少女が迷い込んだのは、すぐそこにあるその街の裏側だった。
普段何気なく過ごしている日常。しかし、「悪」は思いの外すぐ傍に潜んでいる。
この「物語」を通して聴き手に伝わってくるのは、そんな「リアリティ」のあるメッセージだ。
そして『Villain』。
テクノロジーの急速な発展により到来した情報化社会。
誰しもがインターネットを気軽に利用し、その中で人と人との繋がりを形成している。
しかし、そこに巣食う闇がある。匿名での誹謗中傷。
軽い気持ちで他者を攻撃する言葉を書き込む。平気で他者を傷つける。
昨今、何かと話題に上る事象だ。きっと、現代社会に生きる者にとってかなり身近な話題であろう。
ここで、櫻井と聴き手との間に「リアリティ」が共有される。
私達が日夜報道されるニュースを見ているように、彼もその報道を見、心を痛めていることが想像できる。
このように「リアリティ」を共有することで、彼の「怒り」はより明確な響きを持って聴き手へと伝わるのである。
また『MOONLIGHT ESCAPE』。
虐待を受け、そこから逃げられなかった子どもたち。
この世界のどこかに、確実に存在する「苦しみ」や「悲しみ」。
それが、櫻井が幼少期に受けた傷と重なった。
そして彼は自身のリアルな痛み、苦しみと向き合うことでひとつの答えを導き出した。
それが「逃避」であった。
この「逃避」というメッセージは、かなり解釈の間口が広いように思う。
聴き手それぞれに、「逃げてもいい」という言葉が安心感を与えてくれる瞬間がきっとあるはずだ。
この楽曲は、櫻井自身の「リアリティ」が生み出したメッセージが、伝わる過程で聴き手の「リアリティ」へと変化していくものである。
このように『ABRACADABRA』で櫻井が表現したことは、どれも「リアリティ」を感じるものであった。
櫻井の描く「リアリティ」。
そのワードを聞いて真っ先に思い浮かんだのは、2002年リリースの12thアルバム『極東 I LOVE YOU』だった。
2001年9月11日に発生した、アメリカ同時多発テロ事件。
『極東 I LOVE YOU』で櫻井が描いた詞には、その影響が色濃く反映されている。
中でも印象的な楽曲が『極東より愛を込めて』だ。
以下、歌詞を引用する。
"見つめろ 目の前を 顔を背けるな
愛と死 激情が ドロドロに溶け迫り来る
そいつが 俺だろう"
"愛を込め歌おう アジアの果てで
汝の敵を 愛する事が 君に出来るか"
"愛を込め歌おう 極東の地にて
悲哀の敵を 愛する事が 俺に出来るか"
"アジアの果て"、"極東の地"。すなわちここ、日本。
アメリカという、日本からは遠く離れた場所で起きた衝撃的な事件。
距離は遠いが、確実にこの世界で起こったこと。
日夜報道され続けるあまりにもショッキングな映像。
これは夢なのか、フィクションなのか。いや、これは紛れもない現実である。
そうしてこの事件は、人々の心に大きく深い傷を残した。
しかし、日本に生きる自分は「当事者」にはなれない。
どうしても、どこか遠くの場所で起こっていることだと思ってしまう。そんな自分にまた嫌悪を覚える。
そして世界のどこかで尊い生命が奪われている中、自分はただただ変わらない日常を過ごしている。
では、遠く離れた"アジアの果て"から、自分は何ができる?
たった一人の人間の思いなんてちっぽけで無力だ。それでも叫ばずにはいられなかった。
櫻井はこの曲で、自身に「何ができるのか?」と問いかけ、そしてその問いを聴き手にも投げかけた。
世界中の人間が事件のショックを共有していたからこそ、この問いは圧倒的な「リアリティ」をもって聴き手に伝わった。
では、この作品と『ABRACADABRA』にはどのような違いがあるだろうか。
それは「アルバム全体に掲げられたテーマ」が明確に決まっているかどうか、ではないかと思う。
『極東 I LOVE YOU』は先程も述べた通り9.11の影響がかなり強く、アルバム全体のテーマも「反戦」であったり「平和とは何か?」という問いであったりと、かなり統一性がある。
『ABRACADABRA』には、アルバム全体の世界観をきっちりと決めるようなテーマは設定されていない。
そのため、バラエティに富んだ楽曲が集まり、より広がりのある作品になったように思う。
しかし、様々なタイプの楽曲がありながらバラバラに聴こえないのは、「リアリティ」というキーワードが統一感を生み出しているからなのであろう。
ゼロ年代後半〜10年代―「コンセプト」を突き詰める時代
ゼロ年代〜10年代のBUCK-TICKの作品には、あるひとつの「テーマ」や「コンセプト」を掲げ、その世界観を深めていくというものが多くなっている。
以下にいくつか例を挙げる。
①14thアルバム『十三階は月光』(2005年リリース)
このアルバムのコンセプトは「ゴシック」である。
収録されている楽曲の世界観、アレンジ、歌詞、アルバム全体の構成やアートワークなどからも、そのコンセプトが余すことなく伝わってくる。
あるひとつの世界観を深く掘り下げ、聴き手を物語の中へと引き込んでいく。
その表現の手法を確立したのがこの作品である。
②15thアルバム『天使のリボルバー』(2007年リリース)
このアルバムのテーマは「純粋なロック、バンドサウンドの響き」である。
メンバー5人だからこそ生み出されるグルーヴ感をそのまま表現することにこだわっている作品。
楽曲はアッパーなものからしっとりとしたバラードまで揃っているが、どの曲も「5人ならではの音」を大事にしているため、アルバム全体の耳ざわりがとても良い作品だ。
③17thアルバム『RAZZLE DAZZLE』(2010年リリース)
このアルバムのテーマは「享楽的」というワードだ。
ひと時の快楽、バカ騒ぎ-RAZZLE DAZZLE-に身を委ねる瞬間と、それが過ぎ去ったあとの切なさ、もの悲しさ。
一言で「享楽的」と表しているが、その中には様々なイメージが存在する。
ひとつのテーマに対して多角的な視点、表現でアプローチしているため、この作品の楽曲はどれも個性的でありながら、アルバムとしてのまとまりが感じられる。
④20thアルバム『アトム 未来派 No.9』(2016年リリース)
このアルバムのサウンドは、全体を通してインダストリアル色がかなり強い。
そこで展開される物語も、「AI」や 「ホムンクルス」というワードから想起される、科学が発展した近未来の印象を受けるようなものだ。
浮かんでくる光景は、AIに支配され管理される近未来のディストピア。
そのイメージをより鮮明に見せるのが、インダストリアルアレンジが際立つサウンド。
この作品は「サウンド」から想像力をかき立てられ、物語へ没入することができるものである。
このように、ゼロ年代〜10年代の作品は、作品毎にあるひとつのテーマやイメージがあり、それを突き詰めていくようなつくり方をしているものが多い。
その集大成ともいえる作品が、21thアルバム『No.0』(2018年リリース)である。
10年代後半―『No.0』/「深い」アルバムと「広い」アルバム
ここからは、『No.0』と『ABRACADABRA』それぞれの特徴を挙げつつ、制作活動におけるメンバーの意識の変化について述べる。
2018年にリリースされたアルバム『No.0』。
この作品のテーマは「輪廻する生命」と、深化していく「物語」の表現だ。
まず、このアルバムの興味深い点はその構成にある。
1曲目の『零式13型 「愛」』でこの世に生まれたのは、"「愛」"という名の生命。
そこから様々な物語を経験した彼が最後にたどり着いたのは、「母」の胎内であった。
13曲目、アルバムのラストを飾る『胎内回帰』。あるひとつの生命が"愛の名の下へと"還っていく。
そうしてそれがアルバム冒頭へと繋がり、胎内からもう一度この世に生まれる...というような構成。
このように、アルバム全体で表される「輪廻」の構造が、この作品の大きなテーマとなっている。
また『No.0』は、「物語」を表現することを中心に置いた作品でもある。
サウンド面は『アトム 未来派 No.9』からの意識を引継いだ、イメージを具現化するような音づくりがされている。
ただ、『アトム〜』のように音のジャンルを固定していない分、更に深みのある印象を受ける。
更に『No.0』では、バンドサウンドだけではなく、シンセサイザーなどの音の重なりも緻密に作り込まれており、音の密度がかなり濃いものになっている。
そうして聴く者に伝わるのは、圧倒的な音圧。それが「物語」の世界観をより深め、聴き手の想像力を刺激する。
詞の面では、櫻井の表現の深化が感じられる。
先程述べた通りこの作品には様々な物語が存在するのだが、彼はそのひとつひとつで全く違う表情を見せる。
『GUSTAVE』では人間に恋する猫を。
『サロメ-femme fatale-』では愛しい人の生首へ口づけする狂気的な悪女を。
『Moon さよならを教えて』では切ない物思いに耽ける女性を。
『BABEL』では欲望によりその身を滅ぼしていく者を。
『ゲルニカの夜』では戦争という現実に傷つけられる少年を。
この作品で、彼は実に様々なイメージを演じ分けている。
物語の登場人物になりきって、その世界を表現する。
その表現がひとつの完成形へたどり着いたのが『No.0』というアルバムであった。
では、この『No.0』が『ABRACADABRA』へ与えた影響とはなんだろうか。
こちらも、音づくりと詞の表現の観点から見ていく。
まずは音づくり。
アルバムの方向性は毎回基本的に今井寿(ギター、メインコンポーザー)が決めている。
今回今井から出てきたのは「逸脱」というワード。
「なにか尖ったもの」「新しいもの」というイメージ。
それは今までのようにはっきりと決まったテーマではなく、どちらかというと自由な発想を楽しむようなものであった。
そして、前作『No.0』ではかなり細かいところまできっちりと作り込むような音づくりだったのに対し、今作は音数少なくシンプルな印象をもつ。
しかし一概にシンプルといえど、ただ単調という訳ではない。
ヤガミトール(ドラム)の揺るがない安定感と飾らないリズム。そこに光る音色へのこだわり。
樋口豊(ベース)の細部まで考え抜かれたベースラインは、楽曲の展開をより広がりあるものに演出する。
今井はギターという楽器に拘らず、エフェクターを駆使して常に新しく面白い音を探求し続ける。
そしてBUCK-TICKのもう一人のコンポーザーである星野英彦(ギター)。「ヒデ節」と形容される彼の楽曲だが、そのメロディーやアレンジからは新しい風を感じられる。
その上で響くのは櫻井の力強い歌声とまっすぐなメッセージ。
デビューから30年以上活動する中で各々が培ってきたものが合わさり、よりブラッシュアップされたバンドサウンド。
彼らのいつまでも新鮮さを失うことがないバンド感が、常にBUCK-TICKが「新しい」と感じられる要因のひとつだろう。
次に、櫻井による詞と表現について。
前述の通り、今回の詞に共通するのは「リアリティ」を感じられるものということである。
『No.0』は物語を「演じる」意識が強く、それを表現する櫻井はキャラクターをその身に憑依させているような印象をもたせた。
今作では「演じ」ながらも彼の姿がもっとはっきりと見える気がするのだ。
例えば『舞夢マイム』などは完全にキャラクターを演じ切っているが、その奥には「演じる」ことを心から楽しむ櫻井の姿が見える。
その他の楽曲たちも、物語の奥に彼のメッセージを感じることができるものばかりである。
しかし、「演じる」ことを主題においた『No.0』にも「リアリティ」を伴う表現を突き詰めている楽曲がある。
『ゲルニカの夜』だ。
先程も書いた通り、この曲は「戦争」に巻き込まれ傷ついていく少年を主人公に描かれている。
一見すると物語性の強い歌詞だが、2番のサビにこのようなフレーズが出てくる。
"僕はどうだい どうすればいい
愛とか恋だとか歌ってる"
"君はどうだい どう思うかい
誰かが誰かを殺すよ"
このフレーズにおける"僕"は櫻井自身のことで、"君"は聴き手のことである。
それまで物語調で描かれていた歌詞は、ここで一気に「リアリティ」をもった問いかけへと変容する。
この部分は紛れもなく、櫻井自身の言葉で彼自身の「痛み」を吐き出したものだ。
『ABRACADABRA』にも、『Villain』という、彼が自身の怒りを叫ぶ曲がある。
自分の中の思い、様々な感情を包み隠さず表現する。その術を手に入れた櫻井は、今までより少し自由になることができているように思う。
また、櫻井の「演じる」意識については、同じく『ABRACADABRA』に収録されている『獣たちの夜』の詞でこう描かれている。
"踊れ道化(ピエロ) 今夜演じ切るんだ
狂え道化(ピエロ) それが それが お前だ"
ここに、ある種の「開き直り」を感じる。
どうせ道化なら最後まで演じ切ってしまおうと。
その「開き直り」で得た自信が、彼の表現にまた一段と深みを与えたのだろう。
ここまで、前作『No.0』と最新作である『ABRACADABRA』を比較しながら、BUCK-TICKから感じられる「新しさ」について考察した。
このように対比させてみると、以前インタビューで星野が話していた「『No.0』はどちらかというと「深い」アルバム、『ABRACADABRA』は「広い」アルバム」という意味がとてもわかりやすい。
デビュー30周年にして最高傑作とまで言われた『No.0』。
しかしその評価に慢心することなく、常に「新しい」ものをつくり続けるその姿勢。
その結果『ABRACADABRA』もまた、紛れもない最高傑作となったのである。
おわりに
さて、前回今回と2度に渡って書いてきたこのテーマ。
『ABRACADABRA』から見えた過去作の片鱗と「新しさ」。
改めてBUCK-TICKというバンドのキャリアを振り返り、やはりとてつもなく素晴らしいバンドだということに気がついた。
ヤガミがインタビューで語っていた「続編みたいなことはやらない」という言葉。
それがどれだけ難しいことなのだろうか。
過去と同じようなことはやらない。しかし、そこで得たものを確実に次へと活かすことができる。
そうやって33年もの間進化し続けてきたBUCK-TICK。
そしてきっと、これからも進化していくのだろう。
新譜を聴くことで「未来」まで見せてくれるバンドはそうそういない。
常に「新しいもの」を目指し、走り続ける彼らの背中はとても頼もしい。
毎回書いていることではあるが、本当にBUCK-TICKのファンになれて良かったと思う。
最後に、この大変な時代の中『ABRACADABRA』をリリースしてくれたことに深く感謝の意を表して。
ありがとう、BUCK-TICK。大好きです。
P.S. 前後編に分けたにも関わらずめちゃめちゃに長くなってしまい申し訳ありません...。
ここまでお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました!!