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もう会えない君の歌

私は生まれながらのオタクである。
オタクの英才教育を受けたとかではないのだけれども、気づいたらもうオタクだった。
ディズニーシーに興味があればそれぞれのテーマポートの背景となっている物語(バックグラウンドストーリー、略してBGSという)まで全力で調べてその作り込みの細かさに感動し、好きなアーティストが居ればとりあえず曲を色々と聞いてみる。曲が刺さればアーティスト本人の人柄まで知りたくなる。そんなしがないオタクである。
以前のnoteで何度も触れている通り私には注意欠陥・多動性障害(俗に言うADHD)の特性があるので、恐らくその中の「過集中」という要素も拍車をかけている様に思う。
私は興味のある事には全力でのめり込み、それ以外の事は疎かにする典型的な駄目なオタクである。この記事を読んでいる読者諸君が私の様な趣味の合間に人生をやる人間ではなく、人生の合間に趣味をやる人間である事を願っている。
私は自分が「オタク」である事を自分の個性として受け止めているしそれを誇りに思っている節もあるけれど、かつて「オタク」という単語に含まれていた侮蔑的な響きの存在を忘れている訳ではなく。
なので、私は普段は自分や同志の属性を指して「オタク」と称する事が多いが、ある種の侮蔑的な響きのない「○○が好きな人」を「ファン」、侮蔑的もしくは自虐的な響きを持たせた「○○が好きな人」を「オタク」と呼び分ける事がある。
そんな人間なので個人的には「推し活」という言葉に対して色々と思う所もあるのだけれども、まあそれはさておき。
これまで色々な界隈を渡り歩いてきたオタクなので、色々なものに対して思い入れがある。
その中に、「ボカロ」というものがある。
最早サブカルを飛び越えてメジャーな音楽の一ジャンルになっている様な気もするが簡単に説明すると、「ボカロ」というのはヤマハが開発した音声合成技術「VOCAROID」をはじめとした様々な音声合成ソフトを用いて制作された楽曲の総称である。この説明で正しいかは判断しかねるが。
つまり、乱暴な言い方をすると機械の音声を用いた曲、といえば伝わるだろうか。もっと言うと「初音ミク」という名前を出せばそれなりの数の人が
「ああ~」
と反応してくれるのではないかと思っている。というかそうであって欲しいです。正直説明がだるいので。
私は様々なボカロ曲を聞いてきたし、何度も救って貰った事がある。
中学や高校の頃の記憶は殆どないけれど、あの頃友達と話しても先生に褒められても埋められなかった心の穴をボカロをはじめとした音楽に埋めて貰っていた様に思う。

かつて、椎名もた(ぽわぽわP)というボカロP(ボカロ曲を制作する音楽家の事)が居た。
もう随分前に亡くなった。2015年7月23日、「赤ペンおねがいします」という楽曲を遺して。
同日に小田急線で人身事故があったと聞いた。彼の死因は明らかにされていないが、それが彼だったのではないかと推測する人は少なくない。
私が彼の曲と存在を知った時には彼は既に亡くなっていたし、彼の曲に詳しい訳ではない。私は楽曲の好みの差が激しいので、好きな曲調の曲は何度も聞くし、好きな曲調でなければ聞かない。それだけだ。
いつだか忘れてしまったけれど、ある時「アストロノーツ」というタイトルの楽曲を聞く事があった。好みの曲調という訳ではなかったけれど、歌詞が強く私の心を抉った。
何度も聞く訳ではなかったけれど、何故かその曲が忘れられなかった。コメント欄か何かで作者が亡くなっている事、どうやら死因は自殺らしい(死因は明らかにされていないのでこのコメントの真偽は不明である)事を知った。それからもふと思い出しては時折その曲を聞いていた。

ある日、YouTubeのおすすめに「アストロノーツ」がある事に気づいた。ひと月ほど前の話だ。
その頃KADOKAWAに大規模なサイバー攻撃があった影響でニコニコ動画をはじめ様々なサイトがサーバーダウンしていて、彼の楽曲はYouTubeでしか聞く事ができなかったのだった。
久し振りに聞いてみる事にした。その曲は相変わらず真っ直ぐに私の心を抉った。
いつもだったらそこで終わりにする筈だったのだけれども、私は何となく「赤ペンおねがいします」も聞く事にした。
私の内心を言い当てられている様な気がした。院試の勉強もしておらず研究も碌に進まず、というか何をしたら良いのかも皆目見当がつかず毎日の様にTwitterを見て暇を潰している自分。ただでさえ時間がないのに、その時間を上手く使う事すらできず、無為に使い潰す自分。そんな私は、やっぱり0点なのだった。気分が沈んでいたからこそ、その曲は余計に刺さったのだった。
同時に彼自身が本当に0点なのかを考えた。でもきっとそんな事はないのだった。
それから数日間、彼の曲を無作為に選んで聞いていた。「さよーならみなさん」という曲は歌詞は絶望的に苦しいのに曲調はパレードみたいに明るくて、聞いていると気分が沈む様な、逆に元気になっていく様な不思議な気持ちになって好きだった。
私は昔から気持ちが沈むと現在ヨルシカというロックバンドでコンポーザーを務めているn-bunaのボカロP時代の楽曲を聞く事が多かったのだけれども、それからは椎名もたの曲もよく聞く様になった。
彼の歌は、彼の名前の通りぽわぽわしている。音が軽くて、その癖歌詞は曲調と同じ様に軽い訳では全くなくて、まるで自分が死ぬ事をわかっているかの様な歌詞ばかりなのだった。


「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク(通称プロセカ)」というリズムゲームがある。
ある日そこにyukkedolce氏の楽曲「林檎売りの泡沫少女」が追加された。私は中学生の頃「林檎売りの泡沫少女」が本当に大好きでよく聞いていた。私はこの曲に限らず「イデアの少年」や「Good Morning, Polar Night」、「懐中銀河」などの曲も好きだった。
ふと、
「作者のyukkedolceさんは元気なのだろうか」
と思った。YouTubeの最後の楽曲投稿は2年前だった。
ボカロPの中にはそれこそ椎名もたやヒトリエというバンドでボーカルを務めていたwowakaの様にもう亡くなっている方も居る。ハチ名義でボカロを投稿していた米津玄師やn-bunaの様にボカロを作るのをやめてしまった人も居るし、体調を崩して曲を作れなくなってしまった人も居る。だから彼がどうしているか調べるのは怖かった。
Twitterで検索すると、あっさりアカウントがヒットした。
結論から言うと、彼は元気だった。それはもう、拍子抜けするほどに。しかも、まだ曲を作っていた。
「もうちょっと待っていてね」
この言葉を聞いたら、彼の新曲を聞く事を諦めなくても良いのだと思えて嬉しかった。
私はすこっぷというボカロPの「アイロニ」や「クライヤ」といった曲に何度も救われてきたけれども、彼もそこまで元気ではないというと乱暴かもしれないけれども、ボカロを作れるほどの心の余裕とかはあまりなかった様で最後にYouTubeに楽曲が投稿された日はもう6年前とかだったりした訳だけれども、それでも最近少しずつ体調は回復してきたらしく、それこそ先日プロセカに新曲「すれすれ」を提供したりした。もしかしたらもうすこっぷさんの曲は聞けないのかもしれないとほんの少しだけ思っていたから嬉しかった。
正直に言うと、私はボカロPの人達がどうやって収入を得ているのか詳しい事を知らないので、動画の広告収入で収入を得ているものだと思っている節がある。なので、楽曲を投稿しない間どうやって収入を得ているのかはよくわからないし、詳細が気になるところではある。もしかしたらボカロPは本業ではなくて別の仕事をしているのかもしれないし、本当に広告収入で細々と暮らしているのかもしれない。
しかしながら、そんな事はどうだって良いのだった。元気で居てくれた。否、元気で居なくても、生きていてくれた。それだけで十分だった。


私はNEWSのメンバーである加藤シゲアキが数年前ラジオで言っていたという
「生きてりゃ会えるんだもん、生きてりゃ励ませるんだもん」
という言葉を知ってから、その言葉がずっと頭の隅にある。同時に残した
「無責任に言います、生きろ」
という言葉と一緒に。
先日、Travis Japanのメンバーである川島如恵留のえるが彼の個人ブログで
「生きてるから逢える!」
と言っていたのを見た。
「シゲと似た事を言うんだな、この人は」
と思った。
何となく、これらの言葉は真実だったんだろうなと思った。
誰しも興味は移り変わる。私の様に飽きっぽい人間は特に。ボカロを聞かなくなったり、また気紛れに聞いたりする。ボカロPの方もいつでも精力的に活動できる訳でもなくて、別の活動が忙しくなってボカロが作れなくなる事もあるし、体調を崩したり、心の調子が悪くなって曲が作れなくなる事もある。そうなると、自然と投稿は止まる。亡くなったのか、ボカロを作るのに飽きたのか、区別がつかなくなる。最後の投稿が何年も前だったりすると、
「ああ、もうこの人は活動していないのだ」
と感じ、落ち込む。
「もうこの人の新曲は聞けないのだろうな」
と思う。
でも、そんな事はないのだ。
私が生きていて、向こうも生きている限り、彼ら彼女らが新しく作る楽曲を聞ける可能性は残る。
「生きていれば会える」
のだ。
別に生きていても良い事なんてないし、それどころか地獄みたいな日々だし、生きているから偉いという訳でもないし、生きていたって好きな人や会いたい人に会える訳じゃない。
でも可能性はある。可能性はそこに残されている。その「可能性」が「光」になる。「生きる希望」になる。
それだけは、信じても良いのではないかと思うのだ。

皆さん、お元気ですか。
私は元気です。
私はボカロを聞かなくなってしまったけれど、それでも何とか元気に生きています。
貴方はお元気ですか?それなら良かったです。
またいつか、気が向いたらで良いから、曲を聞かせてくれたら嬉しいです。

もう居ない彼に思いを馳せる。
私はもう二度と椎名もたの新しい楽曲を聞く事はない。
最近気持ちが落ち込む度に彼の曲を聞いている私からしたら、それって凄く絶望的だ。
もう解放されたかったのか、それとも生きていたかったのか。
ずっとひとりぼっちだったのか。
「さよーならみなさん」の歌詞には「眠剤」という単語が登場する。彼はもしかすると眠剤なしでは眠れなくなっていたのではないか。
自殺した人は既に亡くなった親族と絶対に交われないだとか、死後も苦しみが続くのだとか、親より先に死んだ人は賽の河原で延々と石積みをさせられるだとか。
どうしてそんな悲しい事ばかり言われるのだろう。人が死んだ後にどうなるかなんて誰も知らないのに。
死んだ後には何も残らない。無だ。故人の肉体を焼いたって棺桶の中に骨と虚無が転がるだけだ。幽霊とか魂とか、本当にあるかもしれないと思う事もあるけれど、目に見えないものは信じられない。私は毎日神棚に手を合わせるし近所の神社にも時折顔を出すけれども、神様が実在するかは怪しいなと少し思っている。
自殺だったのか、事故だったのか、或いは病気か。
そんな事は知るべきじゃないし、わからないままで良いんだろう。
彼が何を考えていたのかもわからないままだ。
考えても何もわからなくて、遺された楽曲達だけがキラキラ光りながらそこにある。随分前に成人したのに未だに大人になれない私は、大人にならなかった彼の歌に今も縋りついている。

もたさん。
今、何処に居ますか。
この世界は今はとても、とっても、死ぬほど暑いです。
貴方の居る場所は少しは快適なのでしょうか?
音楽は今も作っていますか?それとも今はゆっくり休んでいるのでしょうか。
私は大人にはなれなかったし、これからもきっとなれない様な気がします。
きっとこれからもずっと死にたいし、死にたいと喚きながら何だかんだ生きてしまう気がします。
いつか何処かで会う事があったら、また曲を聞かせてください。
なんていうのは私のエゴでしょうかね。
のんびりしてください。
それでは、いつか何処かで。

知らない間に居なくなってしまった、顔も名前も知らない貴方へ。

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