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来世で会おう、酸欠少女

2024年9月20日、神様が死んだ。

前のnoteに書いていたのか書いていなかったのかわからないけれど、私にとってさユりというアーティストは神様みたいな人だった。
私が中学校の頃仲良しだった友達が教えてくれた人。
私が生まれて初めて買ったCDは、「ミカヅキの航海」という彼女が初めて売り出したアルバムだった。
私は一時期彼女の歌を狂ったみたいに聞いていた。彼女の歌に私はいつだって共感していたし、彼女の歌声にいつも救われていた。
後々私はもう1人「神様」と呼ぶほど信奉するコンポーザーに出会ったのだけれども、私が最も好きな彼女の曲の1つで彼は編曲を担当していた。
運命だと思った。
彼女との出会いも、彼との出会いも。

彼女の歌を聞かなくなったのはいつだったっけ。
彼女を教えてくれた友達も、クラスが離れたのをきっかけに疎遠になっていった。
友達の居た特進クラスは、何故か私達のクラスとは別の階にあった。
それはまるで、住む世界の違う天上人みたいに。

久し振りに彼女の歌を聞いた時、彼女は私の知っていた頃とは違う人間になっていた。
少なくとも私はそう思った。彼女の作る歌は明るくて、前向きなものになっていた。それは喜ばしい事の筈なのに、「ミカヅキ」や「平行線」、「birthday song」に救われていた私にとっては少し残念に感じる事でもあった。
決定的に道がずれたのだと思った。
彼女がではなく、私が。
彼女の行く道はいつだって正しい。ついていこうとしなかった私が悪い。いや私も悪くない。多分ボタンを何処かで掛け違えただけだ。
それでもやっぱり彼女の命を削るみたいな歌声が好きだったから、時々彼女の歌を思い出した様に聞いていた。
最新の曲は聞かなかった。ただ、私の好きだった頃の歌ばかり聞いていた。

私の好きな人の中にも憧れている人を「神様」と呼ぶ人が居るのだけれども、人間を神様なんて呼んだらいけないと私は思う。
1度「神様」になってしまった人間は、もう人間に戻れなくなってしまうからだ。
いつだか忘れてしまったけれど、私はある時それを知ってしまった。
だから私は自分の大好きな人を「ヒーロー」と呼ぶ事はあっても「神様」とは呼ばない様にしていた。

久し振りに彼女の名前を聞いた時、彼女は結婚していた。
私にとって彼女はもう殆ど赤の他人みたいになっていたけれど、私は嬉しかった。
彼女が共に歩いていきたい相手を見つけた事が、嬉しかった。
あの頃、私にとって彼女は「神様」ではなくなっていた。
彼女は人間だった。それは間違いなかった。
「花の塔」を聞いた。彼女に傾倒していた頃の様に強く心を揺さぶられる事はなかったけれど、良い曲だと思った。
何故かその頃彼女のファンの界隈は殺伐としていて、私は怖くなってそれっきり彼女の歌は聞かなかった。

彼女がまだ今ほど有名じゃなかった頃、彼女は渋谷の路上で歌っていた。
私はその頃の事は知らない。ただ、当時の彼女の歌っていた歌で忘れられない歌があった。
その歌が、音源になっていた。
MVを見てみた。
その歌は彼女が路上で弾き語っていた頃から随分アレンジされていた。途中の
「大震災」
という歌詞が
「大殺界」
に変わっていた。
色々仕方ないのだろうと思ったし、彼女はやっぱり変わったのだろうとも思った。
私はあの頃も今もずっと息苦しくて、彼女はどうなのかは知らないけれども、でも私を救ったあの歌声は今もここにあって、だから私はこれからもこの曲を聞こうと思った。
私も、彼女も、「酸欠少女」だったから。

Twitterのフォロワーに「僕のヒーローアカデミア」という漫画が好きな人が居る。
彼が何やらショックを受けている様子だった。
彼は「僕のヒーローアカデミア」の主題歌になっていた「航海の歌」というさユりの歌のYouTubeのリンクを貼っていた。
嫌な予感がした。
1週間も前に神様は死んでいた。
これは後から知った事なのだけれども、彼女は機能性発声障害という病気で活動を休止していた。
私は何も知らなかった。
死因が表記されていないからこそ、死因が想起されてしまう気がするのがしんどかった。
沢山の人がショックを受けていて、沢山の人が泣いていた。芸能人の中でも
「ご冥福をお祈りします」
とツイートする人を何人も見た。
それでも彼女の
「あと少し生き延びて」
という言葉を思い出して、
「生きよう」
と励まし合っている人達も居た。

私は祖父の葬式でも泣けなかった様な血も涙もない人間なので、涙が出なかった。
今の私にとって彼女は赤の他人みたいなもので、その知らせを聞いた私はショックを受けながらも何処か冷静で、特段悲しみに暮れる事もなくそのまま日常生活を回した。面白いものを見つけたら笑ったし、美味しい物を食べれば美味しかった。
それでも、完全にスルーする事などできる筈もなかった。
彼女は私の命の恩人だったから。

私は本当に短い間しか彼女のそばには居なかったから、彼女が何を考えて生きていたのかわからない。想像できないし、恐らく推測する資格もない。
多分彼女の欠けた世界でも、私はこれまで通り普通に生きていく。
それでも、彼女はもう居ないのだ。
私はもう2度と彼女の命を削った様な歌声を聞く事もないし、もう2度と何処かで会う事もない。
私は今大好きで心を寄せている人が急に亡くなったところを想像してみた。
私はどうにかして彼に会おうともがかなかった事を後悔するだろうか。悲しみに暮れ、涙するだろうか。死にたいと思うほど落ち込むだろうか。それはその状態にならないとわからないし、できればそうなって欲しくはない。
辛くも悲しくもないけれど、多分私の中からも何かがなくなったのだろうと思った。
彼女は生きているべき人だった。私なんかよりずっと。そう思ったらやるせない気持ちでいっぱいだった。
死んでしまったらもう2度と会えないし、言葉を聞く事も触れ合う事もできない。オレオールはフリーレン達の生きる世界にしかないし、もし死んだって死んだ後死んだ人に会える保証なんて何処にもない。宗教ごとに違った答えがあるけれども、死んだ人間がどうなるのかの正解を私達は誰も知らない。
だから多分、会いたい人には生きているうちに会っておかないといけないのだ。会える間に。

私はもう随分昔から、それこそさユりの歌を聞いていた頃くらい或いはそれより前から、ずっと死にたいと思っている。何故かはわからない。いじめに遭ったのが原因かもしれないし、それ以外にも何かあるのかもしれない。
先日スマホのメモ帳から自分をモデルにした小説を引っ張り出してみたら、その小説の主人公も死にたがっていた。日付は7年前。もう希死念慮のプロだ。
何故かは知らないけれど、私の好きな人や好きだった人、所謂「推し」の中には独特の死生観を語る人が多い。
「美しく死ぬ」事を美徳とし、作品のテーマに生死を織り込む人。
自身が受けたインタビュー記事で
「もう少し一緒に生きてみませんか」
と言った人。
「この世は地獄だと思って生きてる」
と言う人。
ライブの最後に必ず
「死ぬなよ」
と言い残す人。
ライブで
「生きてまた会おうぜ」
と言ったり、自身のラジオで
「無責任に言います、生きろ」
と言った人。
「生きててくれてありがとう」

「生きてるだけで偉い」
が口癖の人。
どうにも変だ。彼ら彼女らと出会ったのは全て偶然の筈なのに、どうしてそんな事を言う人ばかりと私は出会ってしまうのか。これが俗に言う「類は友を呼ぶ」というやつなのか。
でも、私はそんな彼ら彼女らの言葉に救われながらここまでずっとやってきた。本気で死にたい人や悩んでいる人はそんな綺麗事みたいなちんけな言葉に救われたりはしないのかもしれない。そんな言葉に救われている私は大して死にたいとは思っていないのかもしれない。大袈裟とも取れる彼ら彼女らの言葉を馬鹿にする人も何人も見てきた。
でもきっと、みんな痛いのだ。私達には言わないだけで、きっととんでもなく痛い思いをした事があったのだ。
そしてそれはきっと私もそうなのだ。明確な理由が思い出せないだけで。
「普通」に生きてきた人は、きっとそんな重苦しい事に思いを馳せる事はない筈だから。

彼女もそんな人だった。
私が彼女のライブに足を運ぶ事は終ぞなかった訳だけれども、彼女はライブでよく
「また少し生き延びて会いましょう」
と言っていたらしかった。
「birthday song」という曲には
「生きていてと 死なないでと 何度も何度も私は叫ぶよ」
という歌詞がある。
彼女は死にたかったのかもしれない。自分で死を選んだのかもしれないし、そうではないのかもしれない(そうではない事を願っている)。
でもきっと、彼女はよく生きた。そして、彼女の光に救われた人が沢山居た。私も含めて。
現実を受け止められないフェーズから、少しずつ不在を実感するフェーズに入ってきて、彼女の曲の、沢山の歌詞を思い出して、
「あっ、もう彼女は居ないのか。」
と思って、しんどくなっての繰り返し。
それでも生きていくしかない。諦めと絶望。
どうして相手に
「死なないで欲しい」
という人ほど私達を置いていってしまうのだろう。「滑走路」という歌集を遺した萩原慎一郎もそうだった。
この世界は、優しくて、上手く生きられない人ほど生きづらい様にできているのかもしれない。もしそうなら私は神様を恨む。知らんけど。

私の大好きな人は、自身が大切な存在を亡くした時、
「失ったと捉えるか、生きる世界が変わったと捉えるかで心は変わる」
と言っていた。
私の周りには所謂霊視ができる人が居たりしない事もないのだけれども、私は何となく、死んだ後は何も残らない様な気がする。死んだ後は無だ。「葬送のフリーレン」のアイゼンみたいだ。でもやっぱり、そう思ってしまうのはあまりにも寂しい。
彼女とは住む世界が変わっただけなのだろうか。もしそうなら、彼ら彼女らが居る世界は、どうか花の溢れていてあたたかくて、息のし易い場所であって欲しい。出てくる食べ物が美味しいとなお良いし、ふわふわの生き物が撫で放題ならもっと良い。
遺された人が亡くなった人を思うと、天国のその人の下には花が降るらしいと聞く。それは本当だろうか。もしそれが本当なら、定期的に花が降れば良い。そうあって欲しい。
そして、いつか私もその世界に辿り着けたら良いなと思う。
それか、もし気が向いたらヒナゲシか雨になって会いに来てよ。なんて思ったりして。

きっとこのnoteは不謹慎なものなのだろう。私も薄々そんな気がしている。
「さよなら酸欠少女」
って言おうかと思ったけれど、それは何となく違う気がした。
何より、私は彼女にさよならを言いたくない。さよならを言ってしまったら、もう2度と会えない気がするから。

大好きだったあなたへ。
短い間でしたが、お世話になりました。
あなたの歌は私の光でした。
願わくば、何処か別の世界でまた出会えます様に。

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