朝ドラに気づかされた自分のステレオタイプのこと
(非常にセンシティブな内容の記事です。連続テレビ小説「虎に翼」のネタバレを含みます。)
朝の連続テレビ小説、通称「朝ドラ」とはほぼ無縁の人生を送ってきた。
厳密には違う。朝ドラは我が家では特定の時間になると毎朝放映されているものであり、場所や時間を変えながらも「学校」というカテゴリーの場所に通い続ける人生を送ってきた私にとっては「朝の準備をしながら見るもの」だった。
そんな私が全話見通した朝ドラは「あさが来た」、「エール」、「カムカムエヴリバディ」の3本のみ。「ゲゲゲの女房」、「ごちそうさん」、「とと姉ちゃん」、「べっぴんさん」、「まんぷく」、「おかえりモネ」、「スカーレット」、「舞いあがれ!」、「らんまん」、「ブギウギ」等特定のシーンの鮮烈な記憶が残っている作品もあるにはあるが、それらを全通した事はない。
私は朝ドラとは無縁の人生を送っている。
さて、現在放送されている朝の連続テレビ小説は伊藤沙莉主演の「虎に翼」である。「虎に翼」というのは「勢力のあるものに更に勢力を加える事の例え」で、「鬼に金棒」と似た様な意味になる。
この作品は女性初の裁判官となった三淵嘉子氏の生涯をモデルにしたもので、「はて?」が口癖の伊藤演じる主人公、猪爪寅子(通称寅ちゃん)が当時は男性社会とされていた法曹界で奮闘する。
私は最初はこのドラマを楽しく視聴していたのだが、通学の都合で放送時間には家を出る準備をしなければならない事もあり、放送を集中して見るのが難しくなった。また、本編のある時期から主人公の寅ちゃんに共感する事が難しくなり、視聴するのをやめてしまっていた。
この「虎に翼」というドラマには、戸塚純貴演じる轟太一という人物と土居志央梨演じる山田よねという人物が登場する。
寅子の学友であり各々の事情を抱えた2人は時には憎まれ口を叩き合いながら共に学び、そして時代の潮流に否応なく巻き込まれていく。轟は動員されて戦地に赴き、よねは空襲に巻き込まれ生死不明になってしまう。
2024年6月10日の放送では長らく安否が明かされていなかった2人の生存が明かされ、視聴者から人気の高いキャラクターだった事もありTwitterは歓喜に沸いた…かというと、そうでもないのである。
というのも、寅子の学友でありかつての交際相手であった花岡悟(演じているのは岩田剛典である)が闇米をはじめとした闇市で流通する食糧の摂食を拒んだ結果栄養失調で餓死した事が先週放送のラストで明かされており、視聴者はショックと悲しみに包まれていたのだ。2人の生存を手放しで喜べる様な状態ではなかったのである。
6月10日の放送は、復員した轟が親友であった花岡の死を新聞で知るシーンから始まる。
偶然轟と再会したよねは彼女がかつて働いていたカフェーのあった建物に轟を連れて行き、轟はよねに自身の花岡への思いを語り、声を詰まらせる。
その時顔を洗っていた私が見たのは
「腫れた惚れたはカフェーの女給を見ていたからわかる」「気分を害してしまったなら謝る」「私の前で強がる必要はない」
と言うよねと、
「花岡が動員から外れて嬉しかった」「花岡の待つ日本へ帰りたかった」
と泣く轟の姿のみである。
その後でオープニング映像に「ジェンダー・セクシュアリティ考証」の方がクレジットされていた事を知った。
そこで私は自分のとんでもない思い違いに気がついた。
戦前や戦中の2人の交流の様子から、私は轟がよねに想いを寄せているのだと思っていた。
しかしながら、実際のところはそうではなかったらしいのだ。
私は人が痛い思いをする様なバラエティー番組はあまり好きではないし、そんな事でしか笑いが取れないと思っているテレビ局は滅んでしまえと内心で毒づいたりもするのだけれども、同じくらい人に恋愛観について尋ねる番組が好きではない。シンプルに需要が理解できないし(多分何処かにはあるのだろう)、自身のジェンダーやセクシュアリティ、それらに関係なくとも自身の人生観によっては答えづらい質問や答えたくない質問もあるのではないかと思うからだ。
私を含め、何故人間というやつは恋バナというものが好きなのだろう。恋愛というものが生殖に直結する可能性を持っているからだろうか。
アウティングになってしまう為詳細は伏せるが私は今まで所謂性的マイノリティと呼ばれるカテゴリーに属する人と縁がなかった訳ではない。だからこそ、そういった話題に敏感になる事もある。
それだのに私は自分の中にあるステレオタイプな価値観を轟という人間に押し付けていたのだ。私は自分の傲慢な捉え方を恥じた。
SNSを見ると、色んな人が居る。脚本家が「解説」を追加している。ドラマの描写やツイートを絶賛する人、批判する人。色んな人が居て、私は正解がわからなくなってしまった。
そもそも正解なんてものはあるのだろうか。誰が正しくて誰が間違っているのかなんて、それを決められる人など居るのだろうか。
どちらの意見にも納得がいってしまう私は、どちらの意見にもおもねった結果「自分の意見」を一生見つけられないんじゃないだろうか。
それらの意見に対して思う事はさておき、私はひとつ思っていた事がある。
轟はよねに、花岡に対する様々な思いを打ち明ける。
ただ、轟はこうも言っている。
「わからない」
と。
それを知った時、私はブロマンスとか恋愛とか友情とか、そんな境界の曖昧なものの「名前」に彼の思いを当てはめてしまう事がとんでもなくくだらない事に思えた。
きっとその思いの正体はわからないままで良い。
轟と花岡の関係に名前なんて要らない。
轟にとって花岡が大切だった、その事実こそが全てなのだから。
少なくとも私はそう思う。