化粧を落とし、ルビをふる
GINGER WEBに掲載されているTravis Japanメンバーである川島如恵留のWeb定期連載「のえるの心にルビをふる(通称のえルビ)」を読んだ。
私が彼を気にかける様になった顛末は別記事で長々と書いたのだけれども、
まだまだ私もリサーチ不足故、GINGER WEBに連載を持っている事は知らなかった(彼が個人ブログ「のえまる」で「のえルビ」の話に触れていた為最初はブログのコーナーかと思ったのだが、特に何かが更新されている様子もなかったのでFCコンテンツかと思って私は見るのを諦めた。そんな私を見かねたトラジャ担(Travis Japanのファンの名称)の方が教えてくれたのだ)。
この連載は毎月22日に連載されるもので2024年5月から始まったばかりの連載の為、この記事を執筆している時点(2024年7月中旬)では2本しか掲載されていないのだけれども、多分この連載は暫く続くだろう。上手くいけば書籍化されるかもしれない。
肝心の内容の方なのだが、正直私にとってはかなり耳の痛い内容だった。
普段のブログの文体の可愛らしさやユーモラスさは鳴りを顰め、生真面目で思慮深く、誠実な彼がそこに居た。
彼の指摘する内容はどれもこれも私が実践できていない事ばかりで、私は読みながら何だか彼に面と向かって説教をされている様な気分になった(勿論彼の文章が説教臭いという事ではないし、こういった内省的なエッセイを好む人なら非常に楽しめる事請け合いだ)。
私の様な浅慮で狭量な人間からすると、川島如恵留という人は読めない人だった。私は彼を見ているといつも「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉を思い出した。
彼は器用で多才で、品行方正だった。彼のファンが聞いたら
「それは違う」
と言うかもしれないけれど、少なくともひと月ほど彼を見てきた私にはそう思えた。
彼は好奇心旺盛で勉強好きで努力家で、いつだって貪欲だった。聡明で優しく真っ直ぐな彼は私には少々眩しい存在だったので、私は彼を眺めていると段々気まずい気持ちになってくるのだった。
ただ、私はこの感覚を味わうのは初めてではない。
かの事務所で初めて小説を書いたのはNEWSのメンバーであるシゲこと加藤シゲアキだった。私が愛読(というほど熱心に購読している訳ではないが)しているのは彼がRiCEという雑誌に連載しているエッセイ「サイドカー賛歌」とSixTONESのメンバーで加藤を慕っている松村北斗が東海Walkerという雑誌に連載しているエッセイ「アトリエの前で」だけだ。
乱暴な言い方をすると、加藤シゲアキは品行方正ではない。稀にではあるが原稿の締め切りを落としかける事もあるし、書かなければならない原稿を横目にゲームに興じる事もある。落ち込めば叫ぶし、泣くし、酒を飲んで酔っ払うし、何なら酒を飲みながらインスタライブをするし、締め切りが近いけれど眠いという時は机の下で寝る。忙し過ぎてご飯を食べる暇がなければここぞとばかりにファスティングをする。仕事がある時はブログで
「応援してくれ!」
と呼びかけ、仕事がひと段落すればTwitterで
「しごでき てんさい」
とツイートする。恐らくファンに褒められるのを待っているのだ。彼は仕事をする。テレビの収録や雑誌の取材の事もあるし、ラジオの収録をしている事もあるし、ドラマの撮影をしている事もある。舞台の稽古に勤しんでいる時もある。楽曲のレコーディングをしたりもする。ライブの演出を考えて、打ち合わせをする。ライブの振り付けの練習をしたりする。原稿の執筆をしたり脚本を書いたり、企画書を作っている事もある。彼は仕事を片付けて合間に料理をする。映画を観に行く。音楽を作る。カメラで写真を撮る。もっと時間がある時は釣りをしに家を飛び出していくし、心機一転したくなったら荷物を抱えて海外行きの飛行機に飛び乗っている。庶民を喘がせる円安も締め切りも彼の旅路を邪魔する事はできない。
先行する真面目で気難しいイメージとは裏腹な何処かお茶目で人間臭いところが彼の良いところでもある。
しかしながら彼は聡明で優しく、そして誠実だ。彼は弱く、そして強い。彼は自分を応援してくれる人達に目一杯手を伸ばしてくれる。彼は捻くれ者で、その癖誰よりも純粋だった。
彼は冠ラジオ「SORASHIGE BOOK」でよく人生相談を受ける。相談を受けた彼は色々考えながら答えを返す。
彼の話は時に堅苦しく、時に小難しい。それでも彼の言葉は心に届く。彼は絶対に人を嗤わないからだ。彼の言葉はそれだけの力を持っている。
加藤と川島は似ている、と個人的には思う。
まず、名前が読めない(加藤の芸名はカタカナで『シゲアキ』なのだが、下の名前は本当は『成亮』と書く。なかなかの初見殺しである)。
そして卒業した大学が同じだ。
彼らはよくメンバーを気にかけていて、少し内向的で捻くれ者だ。器用で多才なところも似ている。
彼らはいつでも人の為に動くし、それが回り回って自分の為になる様な、或いは自分の為に動く事が他の人の為にもなる様に動いている様な、そんな生き方をしている様に思える。そんな姿は私にとってはとても眩しく見える。私はそんな彼らを尊敬しながらもほんの少し心配してしまうし、彼らと自分を引き比べて少し落ち込んでしまう。
「できることならスティードで」というエッセイの「大阪」という章では、舞台を観に大阪に赴いた加藤が夕飯にホルモンを食べ、また翌朝帰りの新幹線で芸妓に遭遇した話が登場する。
彼が考えるのは体の「中身」である内臓の事、そして化粧を施した自分の「中身」についての事だ。
彼は「物を書く」作業を通して自身の中身を曝け出す試みを、「ミルクレープを剥がす」行為に例えた。
川島は自身の思いを言語化する作業を「ルビをふる」行為に例えた。
「如恵留(のえる)」という初見で読むのはなかなか難しい名前を持つ彼にとって、きっとルビは身近なものなのだろう。
化粧を落とし、或いはミルクレープを剥がし、自分の思いを人前に曝け出す事。自分の思いにルビを振り、人にとって少しだけ読み易い形にする事。
文章という形で自身の思いを届ける事に対する捉え方だけでこんなに異なってしまうものなのかと私は思った。
では、私の書いているこれは一体なんなのだろう。
私は備忘録のつもりで書いているけれど、日記をつけようとして続いた事は1度もない(最長で3ヶ月が限界だった)。私はあまり何かを長期間継続するのが得意ではない。毎日続けた事なんて小学校の夏休みに景品目当てで通ったラジオ体操くらいだ。読者が居なければ、それも私の事を知らない読者が居なければ、私は文章が書けないのかもしれない。そうなると自分の言いたい事をしたり顔で見せびらかしている様な気分になってくる。そんな私の文章は、側から見たら見苦しいものでしかないのかもしれない。インターネット上の記録は一度世の中に解き放ってしまえば二度と削除できない事から「デジタル・タトゥー」とも呼ばれるから、これは傍目から見たら恥ずかしい文章という名前の刺青を無意識のうちに体に刻みつける行為なのかもしれない。
私はたまたま自分の思いを文章にするのが一番得意に近かっただけだ。私は自分の思いにルビなど振っていないし、心を曝け出す苦しさも知らない。
きっとそれは、人の事を思って文章を書いていないからだ。
私は思った事を思ったまま書く。それが人を傷つけたり不快な思いをさせるかもしれないとか、その表現が人に誤解を与えるかもしれないとか、そういった事に考慮をしない。だから文章を書いていて苦しくなる事がないのかもしれない。今も、彼らの生き方を誤解なく受け取り、そして誤解を生まない様に文章にできているか全く自信がない。
のえルビの第2回連載では、川島が両親が自身にかけてくれた金額や愛情に思いを馳せる。
彼に限らず、デビューの予定すらない息子を上京させるべく持ち家と車を手放し家族で上京した、息子がアイドルを辞めても良い様に会社を立ち上げたなど、かの事務所のアイドルの家族の愛情深さにまつわるエピソードは多い。店を切り盛りしながら息子と娘を女手一つで育て上げたという人も居る。「できることならスティードで」の「小学校」という章では、加藤が父親と共に小学校をズル休みした日のエピソードが登場する。このエピソードの本質は彼の両親の愛情という訳ではないのだけれども。
需要はないだろうし所謂「実家の太さ」をアピールする意図もないけれども、ここで少し長めの自分語りを挟もう。
私は、彼らに負けず劣らず愛情をかけて貰っていたと思う。私は私の両親が川島がご家族にかけて貰ったのと同等、もしくはそれ以上の金額を私につぎ込んでくれたと断言できる。
川島の両親と同様に私の両親はピアノに料理、ゴルフなど様々な習い事を私に習わせてくれた(流石に子役はやってはいないけれど)。絵本も知育玩具も沢山あったし、私が欲しがったぬいぐるみもよく買ってくれた。嘘みたいな話だが、私が中学受験を決意した理由も川島と同じ「いじめから逃れたかったから」だった。
とある先生に憧れ医師を志そうと決めた私を両親は喜んで塾に通わせてくれた。中学校と高校は理系が強い私立に通った。
ただ、私は暫くして医師という仕事の厳しさに気がついてしまった。医師という職業は、私の様な甘っちょろい人間には到底目指すとは口にできない職業だった。
ただ、私の両親や祖父母の私の将来への期待は私自身のそれよりずっと高くなってしまっていた。臆病で怠惰な私には、医師を目指そうと腹を括る覚悟も、医師を目指さないと口にする勇気もなかった。
浪人もしたけれど、医学部の門が開く事はなかった。当然の事だった。
何だか、半分強制されながら挑んだ受験の様な気がしている。
放任主義の父親と異なり、母親はとても厳しかった。飽きっぽく注意力が散漫な私を母親はよく叱った。教科書を家の外に放り出された事もあるし、手や足が飛んできた事も1度や2度では済まない。私は母親を恐れた。私が身に付けたのは母親の言う通り「正しく」生きようという思いではなく、母親に隠れて楽しい事をしようとする悪知恵だけだった。そんな私は母親の目には
「親を馬鹿にしている」
様に映るらしい。間違ってはいないと思う。
厳しい母親を恨んだ事もあった。
「自分は虐待されているのではないか、私の母親は毒親なのではないか」
と思った事もある(今はそうは思わないけれども)。
今も母親とよく喧嘩をする。私の様な人間は恵まれているという言説もよく目にするし、感謝もしているけれど、これは恐らく私の本心ではない。私は両親のくれた愛情を上手く受け取れていない。
「こんなに愛情を注いでいるのに娘に伝わっていない」
と母親が知人にぼやいていたというのを、私はかの知人と話していて知った。
こんな事がある度に、私は母親にとって自慢の娘たり得ているのか考える。
「愛しているのならもっとわかり易くそれを表現して欲しい」
と生意気な事を考える事もあるけれど、違う事を考えたりもする。
母親を怒らせたり泣かせたりしている私など居ても居なくても良かったのではないか、寧ろ居ない方が両親や周りの人達は幸せだったのではないかと思ってしまう。
両親は私を学校に通わせる為に借金も沢山したという。
沢山苦労をかけたのに、ずっと期待を裏切り続けてしまった。
申し訳ない事をしてしまったと思っている。
きっと彼のご家族にとって如恵留くんは自慢だろうけれども、きっと私の家族にとっての私はそうではないだろう。私は彼とは違う。私は随分前に何処かで道を踏み外して、もう修正不可能なところまで来てしまった。
川島がよく口にする言葉に
「生きていてくれてありがとう」
というものがある。
「生きているだけで偉い」
というのもある。私も
「生きているだけで偉い」
と言いたいけれど、そんなのは嘘だ。生きているだけで褒められるのは赤子だけだ。現に少し大仰にも聞こえる彼の言葉を小馬鹿にする言葉を見た事もある。でも私は、彼の
「生きていてくれてありがとう」
が絶対に何処かの誰かを救っていると思うし、彼の何処か達観した様な考え方が好きだ。認めたくはないし認めるのは申し訳ないけれど、私はきっと彼に心底惚れ込んでいる。
私も社会人になったら、或いは彼と同い年になったら、両親に愛されたありがたみがわかる様になるのだろうか。そして両親に素直に感謝できる様になるのだろうか。両親が存命中に間に合うのだろうか。
彼が思いを馳せていた親族にかけて貰ったお金や愛情。そしてそれに見合う価値になれているのか。彼がどうかは知らないけれど、私に関しては答えはノーだと断言できる。だからきっと彼の生き方が私には眩しいのだ。私の様な人間が彼を好きで居たり尊敬したりしていたらいけないのではないか、彼に触れたら壊してしまうのではないか。そんな思いがずっと頭の片隅を巣食っているのもきっとその所為なのだ。
きっとこれは彼にとって不本意な結果だと思うけれど(案外そうでもないかもしれないけれど)、私は彼の文章を読みながらそんな事を考えてすっかりしょんぼりしてしまった。
そんな時、不意に
「こうして読んでくれる貴方に出逢えて良かった。」
という一文が目に入って、そうしたら何だか彼が笑ってくれた様な気がした。
境遇が似ている様で、まるで正反対の生き方をしている人。
私も、こうしてこの文章を書いてくれた貴方に出逢えて良かったです。